オルタナティブ・ブログ > 猫のベロだまり >

ある時はコンピュータの製品企画担当者、またある時は?

進学教室のテキストを横目に教科書を考える

»

娘が通う進学教室では、受験のシーズン本番を迎える2月になると、早くも1学年繰り上がってしまう。要するに受験生は「卒業」扱いなので、それ以外の生徒は学校に2ヶ月も先駆けて新学年生として進級する。テキストも全て次の学年を想定したものに置き換わっている。このテキストだけど、学校の教科書とはその内容とボリュームに雲泥の差がある。例えば算数について比べてみると、進学教室の旧学年(要するに学校の現学年相当)のテキストは約300ページ、学校の教科書は90ページ弱しかないどちらも半年分の分量である。教科書の方が文字大きいし行間も空いているし、何よりもカラー写真・カラーイラスト入りである。見栄えが良いのは一目瞭然であるが、一方で情報量の差はページ数以上に開いている感覚的にざっと7~8倍は違うんじゃないかな。

それにしても教科書ってわざわざカラーである必要なんてあるんだろうか。そして必須とも思えない、一体何の脈絡があるんだ、と思わせるような写真やイラストまで掲載されている。チョコレートを皆に配ります、と始まる文章題の脇に、チョコレートのカラーイラストなんかが掲載されていたりする。コインを並べて図示するのに、簡単なイラストで済ませられるところを、わざわざ10円玉のカラー写真を並べている。同じ学習テーマをカバーしているはずなのに、同じ学年の生徒が学習するために使うものとは思えない。乱暴に例えると、絵本と文庫本の小説ほどに次元が異なるのである。

教科書って学習するべき内容が検討される事はあるにしても、その作りまで議論されることなんてあるのだろうか。どうせ子供の学習意欲を掻き立てることが重要、だとか、状況の理解を助けるため、なんて大義名分は用意されているのかもしれないけど、あまり説得力を感じない文字だけの情報から何が起ころうとしているのか想像するとか、先生の助けを借りながら一見手強そうな文章に取り組むとか、の方が大事なのではないだろうか。子供の気を引くことに片寄りすぎているように見えるし、そもそも税金の無駄遣いだなんて指摘されることはないのかな。僕が子供の頃は白黒だったが、難解でつらかったというような記憶もない。だからといって、使用する生徒とか目的が違うので、進学教室のテキストみたいにしてしまっては、万人が使用するのに適しているとは言い難い。ただもっと素朴でシンプルな作りを目指すべきだ、といったような議論がなされても良いはずだ。

Comment(0)