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ある時はコンピュータの製品企画担当者、またある時は?

進学教室に見る社会の縮図

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小学生も高学年になると進学を意識しなければいけないらしい。僕が小学生の頃はこんなに早く意識することはなかったなどとつぶやいてみても、そんな昔話に耳を傾けようなんて人はいなくて、皆はいかにしてこの現実を乗り越えようかという点に腐心している。というわけで周りが行くからうちも、ではないが、今年から娘を大手進学教室に通わせている。

僕もお受験を経験した部類に入るのであるが、娘が今通っている進学教室の成績評価は想像を絶していた。成績毎にクラス分けされるのはまだよいとして、教室の中の席順も一番前の王様席(と俗に呼ぶらしい)から成績順に割り当てられるのだそうだ。だから前回のテストで誰がどのような成績をとったのか、生徒同士の成績の優劣が誰の目にも一目瞭然である。

このようなシステムの欠点はいくらでも並べ立てることができそうだ。生徒同士の人間関係がぎすぎすしそうだし、テストの成績という数値に置き換えられた結果が全てであるかのようにして人間全体を評価するのはおかしいし、というわけだ。ところが親の心配をよそに子供はいたって強靭である。友達との間で成績に優劣がつけられたところで、それでおごり高ぶったりするわけでもないし、卑下するわけでもない。いたってクールに現実を見据えながら、次回はどこの席を狙うんだと言っている。親の方も変に子供を煽り立てるようなことを言わずにいれば、子供の方も心得たもので、成績評価と人間としての順列は別のものだと思うものらしい。だから、娘がもし自分よりも成績下位の子のことを小馬鹿にするような発言をしたら、厳に戒めてやらねばなるまいと思っていたのだが、心配は無用だったようだ。

進学教室は客である生徒にとって、最大の効果をもたらすべくシステムを組み上げようとする。人間関係において発生するかもしれない不具合は、リスクとして客自身に許容させ管理させることを前提にしているのだろう。おそらくこの点が学校との最大の違いだと言うことができそうだ。そしてこのリスクさえうまく管理できれば、すなわち競争という現実をうまく活用できれば、人間は進歩するというわけだ。娘と娘をとりまく子供達の言動を聞いていて、人類の進歩の原動力は競争にあることを改めて感じた次第である。どうも学校をとりまく環境については、競争イコール悪であるという論調が主流であるかのような気がするが、リスク管理の仕方によっては競争は善にもなるはずだ。

どうせ学校を卒業したらいきなり競争の現場に放り出されるわけだから、早いうちから精神的に鍛えておく方が望ましい。どう頑張ったところで到底肩を並べるには至らないような人もいるし、常にどういうわけか自分よりも下位に留まっている人もいる。そういった環境の中で、身の処し方を小さい頃から学ぶのは重要なことなのではないだろうか。

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