スポーツもスポーツカーもいらない
今週木曜日(10月25日)の朝日新聞「私の視点」コーナーに、ちょっと気になる主張が2つ掲載されていました。普段は「フーン」で華麗にスルーするのですが、たまたま同じ疑問を抱いたこともあり、ここでコメントしてみたいと思います。
最初の主張はこれ。横浜国立大学の海老原修教授が書かれた文章です。プロボクシングの亀田一家が非難を浴びている件に絡み、テレビ局などのメディアが「物語の演出」を行ってきた責任を指摘した上で、こう主張されています:
これではスポーツが本来持つ楽しさは失われる一方だ。不幸なスパイラルを断ち切るためにも、メディアの思惑に乗るのではなく、競技団体には時間をかけて本物のヒーローを育ててもらいたいし、私たちもスポーツを楽しむ力を身につけたい。
(「◆亀田騒動 メディアが作る『物語』を笑え」より)
次に自動車評論家として有名な、徳大寺有恒さんの文章:
メーカーには、もう一つ注文がある。男性が女性を、女性が男性を意識するのは、いつの時代も変わらないことだ。そこに自動車がどう介入できるのか、もう一度、真剣に向き合ってはどうか。スポーツカーやスポーティーな車が果たす役割の一つは、そこにあると思う。
(「◆スポーツカー 『男と女』演出できる車を)
まったく異なるテーマについて語られている2つの文章ですが、なぜか同じ違和感を感じました。お二人が仰られていることはよく分かります。スポーツの本来の楽しさを再認識しよう。スポーツカーが持つ「男と女の演出」という本来の価値を再現しよう。それには一方で賛成ですが、もう一方でこうも感じます――それってもう、時代遅れなんじゃないですか?
スポーツは素晴らしい。チームメイトと協力して、勝利に向かってひたむきに邁進する。相手との戦略的な駆け引き、たった1つの判断が勝敗を分けるドラマ性。そこに目を向ければ、過剰な演出なんて必要ないじゃないか……という主張はもっともです。個人的にもスポーツ観戦(運動神経ゼロなので、やる方はパスですが)は好きですし、煽るだけの過剰なTV番組(亀田騒動しかり、世界バレーしかり)には賛成できません。しかしスポーツ中継に「煽り」が必要になってきたのは、視聴者がスポーツ本来の価値に目を向けなくなったからではなく、「本来の価値」とされてきたものに価値を見出せなくなったという面はないのでしょうか?炎上リスクを承知であえて書いてしまえば、「ボールを上下左右に動かすだけのどこが面白いの?みんなで一喜一憂したりするのウザいし」といったところです。
一方のスポーツカー。これも僕は子供の頃スーパーカーに憧れてました、という釈明を書いた上であえて言わせてもらえば「スポーツカーで女性を口説こうなんて古いし。そもそもクルマってただの移動手段でしょ」という意見もあるはずです。スポーツカーに憧れを抱く人が減ったのは、自動車メーカーの「演出」が下手になったからではなく、そもそも「男と女」という部分が消費者の意識とズレてきたという面があるのではないでしょうか?
スポーツ観戦とスポーツカー。奇しくも同じ「スポーツ」であり、提供側の「演出」が問題にされているという点も一緒ですが、「いやぁ本来の魅力は損なわれていないんだよ、やり方を変えれば人々は戻ってきてくれるはず」ではすまない点も同じではないでしょうか。両者を今後も存続させたいのであれば、人々の価値観の変化に合わせて、その本質や見せ方を変えていく必要があるのではないかと思います。