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伝統のリスク

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朝日新聞日曜版に掲載されている「心体観測」というコーナーが面白くて毎週読んでいるのですが、最近ちょっと意外なことを教えてもらいました。

筆者の矢田部英正さん(武蔵野身体研究所主宰)によると、実は「正座=日本人の伝統的な座り方」という概念は、実は明治以降になってからつくられたものだそうです。例えば武家茶道の正式な座り方は「立て膝」であり、明治15年に発行された『小学女子容儀詳説』という本には「凡そ正坐は家居の時より習ひおくべし」という一節が出てくる(すなわち正座は当時一般的な座り方ではなかった)のだとか。そもそも(正座という座り方をしていた人はずっと昔からいたにせよ)「正座」という概念自体が明治以降に生まれたという捉え方もあるそうですから、「正座=日本の伝統」という認識はちょっと改めた方が良さそうです。

となると興味が湧くのが、なぜ「正座=伝統的・正式な座り方」という概念が定着したか、という点です。もちろん前述のような『小学女子容儀詳説』といった書物、もしくは制度によって意図的に定められてきたわけですが、矢田部さんは次のような指摘をされています:

これこそが「正しい坐」です。という基準が一度定まると、それ以外の坐り方は「正しくない」「不作法である」という風に、暗黙の内にもイメージは連鎖する。そのことが、本来はもっと自由であったはずの伝統文化を、ひどく窮屈なものに変えてしまったと筆者は見ている。

ある場面で「正座=皆が従うべきルール」と定めた人には、「これ以外の座り方は認めない」「これぞ日本の伝統である」などと主張する意図は無かったのかもしれません。しかし「これこそが正統である」と定めることは、矢田部さんが仰る通り、それ以外のものを認めないという態度に容易に結びつきます。特に日本人はグループの中で逸脱的な行動を取ることを嫌いますから、ひとたび「こうしよう」という方向が決められてしまった結果、正座が予想以上の地位に祭り上げられてしまったのかもしれません。

最近、「日本語を守ろう」「日本の文学を守ろう」といった運動が盛り上がっています。個人的にも、日本語は母国語であるという以上に「美しさ」を感じる言葉ですし、これからも良いところを守っていって欲しいと思います。しかし、例えば明治期前後の日本語や日本文学を「伝統」「正統」として祭り上げてしまうことは、逆に日本語の柔軟性を削ぐ結果になってしまうのではないでしょうか。「ケータイ小説」のようなラディカルな存在を認め、多様性を確保することの方が、日本語の可能性を高めるのではないでしょうか。

日本語に限らず、日本の「伝統的」な文化には美しいものがたくさんあります。しかしそれを偏屈に守ろうとすることは、逆にそれを「窮屈な伝統」にしてしまい、人々から避けられる存在にしてしまうに違いありません。伝統を主張することには、そんなリスクも含まれていることを意識しておく必要があると思います。

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同様に「仏教徒がクリスマスを祝うなんてけしからん!」なんて意見もありますが、僕は節操なく様々なイベントを取り込んでしまう姿勢、結構好きです。日本がこんなに面白い(おかしな?)国になっている一因、そんなところにもあるはずですし。ということで、今日から12月。今年もあと1ヶ月、頑張りましょう!

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