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【書評】『現実を生きるサル 空想を語るヒト』

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企画や営業、開発など、世の中には無数の仕事がありますが、その大部分は「人間」を相手にしています。開発の仕事でも、開発されるモノが人間によって使われるのであれば、間接的にであれ人間を相手にしていると言えるでしょう(だから人間工学のような研究が存在するわけです)。そう考えると、私たちは日々仕事を通じて、人間とは何か?という問いを突きつけられているのではないでしょうか。

世の中に無数の「人間とは何か?」を考える本が存在しているのも、こうした理由があるのではないかと思います。試しに書店に行けば、ビジネス書や科学読み物、ハウツー本、そして小説といった形で、娯楽や実用と人間の本質とを結びつけてテーマにした本が、数多く並んでいるのを目にすることができるでしょう。答えに迫るためのアプローチも、哲学に基づくもの、心理学の実験から考えるもの、あるいはロボットのように「人間に近い存在」との対比で考えるものと様々ですが、本書『現実を生きるサル 空想を語るヒト―人間と動物をへだてる、たった2つの違い』は、人間とそれ以外の生物(特に霊長類)との間にある「ギャップ」(本書の原題は"The Gap")を考えることで、人間とは何かを追った一冊です。

現実を生きるサル 空想を語るヒト―人間と動物をへだてる、たった2つの違い 現実を生きるサル 空想を語るヒト―人間と動物をへだてる、たった2つの違い
トーマス・ズデンドルフ 寺町朋子

白揚社 2014-12-10
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人間とそれ以外の生物との間にあるギャップなんて、簡単に挙げられるじゃないか、と思われたかもしれません。しかし様々なアプローチでの研究を通じて、何が人間特有の行為かという境界線は、非情に曖昧なものとなっています。

たとえばニック・ボストロムの"Superintelligence"の中で、コンピューター科学者のドナルド・クヌースが語ったこんな言葉が引用されています:

そろそろ人工知能が、「思考」を求められるあらゆる作業を行えるようになっても良さそうなのだが、実際には人や動物が「何も考えずに」できるような作業のほとんどを行えずにいる。実はそうした作業は、想像よりはるかに難しいのだ!

たとえばロボットカーは長年SFの中で登場していながら、ようやくここ数年になって、グーグルなどの企業によって実用段階の手前まで迫ってきました。その一方でコンピューターは、チェスや将棋の対局で人間に勝つなど、特定の領域で人間を凌駕するまでの性能を持つに至っています。となると、相手がコンピューターとはいえ、「人間にしかできない行為は、チェスや将棋などではなく、自動車の運転だ」ということになりますが、これは多くの人々の実感に反する結論でしょう。

しかし同じような「一見すると簡単にできそう/できなさそうなのに、簡単な仕掛けで実現できる/できない行為」が、いま次々に明らかになっています。たとえばいわゆる「人工無脳」を使い、決められたパターン通りの返答を返すような心理カウンセリングを実施したとしても、一定のカウンセリング効果が得られることが分かっています。また以前ご紹介した"Darwin’s Devices"(邦訳『進化する魚型ロボットが僕らに教えてくれること』)では、光に反応して左右に曲がるという簡単な仕掛けの魚型ロボットでも、まるで人間から見ると意思を持っているかのような動きを再現できることを明らかにしています。

『現実を生きるサル 空想を語るヒト』でも、このような例を見つけるのに苦労しません。たとえば次のような、少し恐ろしい話も登場します:

 これらの生得的な行動は利口なものに見えるが、環境が変化すると、将来の見通しが欠けていることが明らかになる。その代表的な例の一つが、アナバチだ。獲物を取ってきたアナバチは、必ず獲物を外に置き巣穴の内部を点検してから、獲物をなかに引きずり入れて幼虫に食べさせる。巣穴を点検しているあいだに、意地の悪い人間がその獲物を数センチメートル動かすと、アナバチは再びそれを運んできて入り口付近に落としてから、巣穴を点検するという一連の作業を繰り返す。これは何度でも繰り返される可能性があり、アナバチがその行動プログラムから抜け出すことはない。幼虫に餌をやることは、将来に向けた複雑な行動のように見えるが、アナバチは幼虫の成長を見守ることにかんして明確な考えは持たずに、この行動を実行している。もし巣穴の入り口が破壊されたら、アナバチは幼虫に餌をやらずに、幼虫を踏みつぶしながら狂わんばかりに入り口を探し回る。同様に、様々な動物が、なぜ越冬に向けて食物を貯蔵するのかを必ずしも理解せずに、そのような行動をする。

実際に一見複雑に見える行動が、論理的な思考の結果としてではなく、一種のサブルーチンやモジュールの組み合わせでも達成できる例が無数に存在しています(前述の魚型ロボットもその一種でしょう)。もちろん人間あるいは動物の行動のすべてが、こうした一定のシグナルに対する反応として起こるわけではありません。またそれこそロボットのように、単純に決められたことを繰り返しているだけだからといって、命を粗末にしていいというものでもありません。ただ人間とは何かを考えたとき、多くの「人間的」な行動が、動物の脳でも再現され得ることを本書は示します。その意味で、原題にもなった「ギャップ」は、実は非常に狭いものであるような感覚に陥りました。

ただたとえ狭いものだとしても、人間とそれ以外の動物の間にある「ギャップ」を飛び越えるには、大きな一歩が必要になります。本書では人間特有の行為、あるいは人間が格別の能力を持つことが確認できる領域として、言語、心の中での時間旅行、心の理論、知能、文化、道徳性という6つの領域を挙げているのですが、この領域に至る一歩(あるいは二歩?)として、こんな指摘がなされています:

 六つすべての領域で、人間をほかの動物から区別する二つのおもな特徴が繰り返し出てきた。それは、さまざまな状況を想像したり考察したりすることを可能にする、入れ子構造を持つシナリオの構築能力と、心を他者の心と結びつけたいという衝動だ。主としてこれら二つの特性が、私たちの祖先に「ギャップ」を越えさせ、動物のコミュニケーションを際限なく拡張可能な人間の言語へ、記憶を心のなかでの時間旅行へ、社会的認知を心の理論へ、物理的な手がかりによる問題解決を抽象的な推論へ、社会的伝統を累積的な文化へ、共感を道徳性へと飼えたように思われる。

これら2つの特徴が、人間に「ギャップ」を越えて6つの分野で躍進することを可能にし、その差はさらに開くのではないかと著者のトーマス・ズデンドルフ氏は考えます。再度の引用となってしまいますが、もうひとつだけ本書から取り上げておきましょう:

 私の予想では、動物と人間のギャップは今後広がる。じつは、すでに広がりつつある気配が漂っている。二〇世紀に人間の知能検査の成績は、一〇年ごとに平均で三パーセント向上してきた。一部の証拠によれば、脳の大きさは、過去一万年の傾向に反して、過去一五〇年でわずかに増加した可能性がある。私たちはより栄養のある食物を摂り、より刺激的な教育を受けている。それに、シナリオを構築する心を、これまで以上に精密な機械や洗練された技術で強化しており、それによって世界をますます強力な方法で測定し、モデル化し、制御することができるようになっている。インターネットなどの電子的ネットワークを通じて、私たちは何百万人もの人の心を結び、文化の蓄積を爆発的に増大させている。ほとんどの質問に対する答えは、わずか数クリックで得られる。科学の進展は加速しており、その結果として蓄積する一方の知識が、人間の知能の生物学的、電子的、科学的な向上への門戸を開くだろう。その兆しはすでに見えている。私たちはかつてないほど利口になりつつある――より賢明になることを願うばかりだ。

確かに客観的なシナリオを構築し、際限なく想像をはばたかせる力と、他人と結びついて巨大なネットワークを構築する力は、最近のデジタル技術の向上によって拡張される一方です。もしズデンドルフ氏の言うように、これらが「ギャップ」を越えた進化を可能にする力なのであれば、人間に特有の能力はさらに高度なものとなっていくでしょう。まったく、それが愚かな使い方をされないことを願うばかりですが、個人的にはより賢明な生物へと人間が進化していく可能性は小さくないと期待しています。

ということで、「人間とは何か」を問う本の常として、きっかけや切り口は1つ(本書の場合は「人間と霊長類との比較」)であっても、そこから際限なく話題や問題意識が広がっていきます。本書も先ほどの引用のように、現代社会の将来といった意外なテーマが登場し、いろいろと考えさせられました。ズデンドルフ氏の軽妙な語り口も面白く、いわゆるポピュラーサイエンス本ではないのですが、読んでいて飽きさせません。年末年始の読書リストに加えておいて、損はない一冊です。

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