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【書評】マクルーハンは医療ビッグデータの夢を見るか――"The Patient Will See You Now"

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パーソナルデータを収集することで、企業は消費者を個人レベルで把握することが可能になりました。しかしそれにより、消費者に対する企業の力が大きくなり過ぎることへの懸念が生まれ、パーソナルデータのコントロールを「所有者」である個人の手に取り戻そうという動きが大きくなっています。例としてドク・サールズの『インテンション・エコノミー』や、そこに登場する「VRM(Vendor Relationship Management、個人が企業を管理するためのシステムで、企業が顧客を管理するCRMの対極にある概念)」などが挙げられますが、「医療版VRM」とも呼べる概念を提唱しているのが、本書"The Patient Will See You Now: The Future of Medicine is in Your Hands"です。

The Patient Will See You Now: The Future of Medicine is in Your Hands The Patient Will See You Now: The Future of Medicine is in Your Hands
Eric Topol

Basic Books 2015-01-06
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著者は著名な心臓医で、スクリップス・トランスレーショナル科学研究所所長のエリック·トポル博士。彼は前著"The Creative Destruction of Medicine: How the Digital Revolution Will Create Better Health Care"でも、デジタル化による医療の近未来を描いて話題になりました。今回も様々な次世代の医療のあり方を考察しているのですが、中心となるのが「医療パーソナルデータ」です。

"The patient will see you now"とは何とも奇妙なタイトルですが、通常は"The doctor will see you now"(先生が診察しますよ)という医者視点の言葉を、まるっきり逆にしたもの。つまりVRMと同様に、これからは医者の指示を患者が受動的に待つというのではなく、患者の方が能動的に治療や健康維持に係わっていく世界が来ること(あるいはそのような世界が望ましいこと)を訴える内容となっています。よく「医療パターナリズム」(医者が患者との関係を親子関係のように捉え、「親」である医者の意思を「子」である患者は無批判で受け入れなければならないと考えてしまうような態度)が問題になりますが、トポル博士はこのパターナリズムを厳しく批判し、患者が自分の意思で治療を選択していくような未来を描いています。

そのカギを握るのが、もちろんデータです。スマートフォンやウェアラブルデバイスを中心に、様々な医療関連機器(もしくは医療機器としての機能が加えられた物品)にデータ収集・記録・送信の機能が埋め込まれ、「IoMT(Internet of Medical Things、医療機器のインターネット)」が普及しつつあることで、自分の身体や健康状態に関するデータを手にすることが非常に簡単に、安価に行えるようになりました。23andMeのように、遺伝子解析まで個人に手が出せる料金で行える世の中です。さらに先日も「線虫で初期がんを高精度で判別する」などという話があったように、診断テクノロジーは高度化と低価格化を続けています。その結果「医療ビッグデータ」と呼べるほど大量のデータが生まれており、これを上手く使うことで、医者と患者間の情報格差がなくなって医療パターナリズムも解消に向かうとトポル博士は考えています。

もちろん詳細なデータが簡単に手に入るようになったからといって、それだけで患者が適切な行動を取れるわけではありません。そこに至るまでにいくつかのステップが必要になるわけですが、そのひとつが「(患者が)データに対するリテラシーを高めること」。ちょうどグーテンベルクが活版印刷技術を完成させ、大量のテキストデータが出回るようになったことで文字を読める人々が増え、テキストデータに基づく近代社会が完成したように、医療パーソナルデータの民主化が進めば、それを活用する知識が市民の側にも要求・形成されていくだろうと予想しています。そこで参照されているのが、マクルーハンの『グーテンベルクの銀河系―活字人間の形成』における考察。マクルーハンが存命であれば、今日の医療におけるデジタル革命/スマートフォン革命に対して、グーテンベルクの活版印刷技術と同じ評価を下していただろうとトポル博士は述べます(まさか医療テクノロジーを解説する本で、マクルーハンやグーテンベルクの名前を目にすることになるとは思いませんでした)。

もうひとつの要素として提案されているのが、「医療版GIS」。GISとはGeographic Information System(地理情報システム)のことですが、もちろんここでは本当に地理情報を利用するという意味ではなく、心電図やレントゲンデータ、さらには遺伝子情報なども組み合わせ、「医療情報の全体像」をまるで地図のように把握することのできるシステムが想定されています。データの管理に患者も能動的に関わり、ちょうど先ほどのVRMの医療版と言うこともできるでしょう。こうしてデータを集約し、分かりやすく表示したり、あるいは高度な分析を可能にしたり、さらには信頼できる相手(かかりつけの医師や製薬企業、医療器具メーカーなど)にアクセスを許可したりすることで、データをより良く活用できるようになるだろうと予想されています。もちろんそのようなシステムはまだ完成していないわけですが、その実現に向けた取り組みが始まりつつあることも描かれています。

一方で医療版GISや、それを活用したデータ分析に基づく診断、さらには患者による能動的な取り組みは、医者の権威を相対的に低下させることになります。従って医療現場からの反発がある程度予想されるとされ、実際に否定的な言動があることを本書は紹介しているのですが、この辺りの解説は医療以外の世界にも応用できるでしょう。これまで専門家という人間にしか担えないと思われてきた知的労働が、アルゴリズムや人工知能に置き換えられようとしたとき、どのような反応や構造変化が起きるのか。それを考える上でも、本書は非常に参考になると思います。

他にもオープンデータやソーシャルメディア、機械学習といったテーマと医療との関わりも網羅されており、医療を事例に最新テクノロジーとその活用法を探る一冊となっています。前述のようにマクルーハンにも言及されるなど、医療本の範疇を超えた内容となっていますので、様々な関心に応える本と言えるのではないでしょうか。

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