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覚悟はあるか?

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読書の秋、を演出しているわけではないのですが。最近何冊かご献本をいただいたり、面白い本に偶然出会うことが続いたため、すっかり読書づいています。というわけで、今回は『それでもドキュメンタリーは嘘をつく』を読了したのでついて少し。

この本は2005年3月に草思社から出版された『ドキュメンタリーは嘘をつく』に加筆修正した文庫本で、テレビ番組のディレクター/映画監督の森達也さんが、ドキュメンタリーとは何かについて語った文章をまとめたもの。ただし話はドキュメンタリーにとどまらず、それと隣接する分野(ジャーナリズムや新聞、ニュース番組といったもの)にも話が及び、メディア論のような性格も帯びています。例えばオウム真理教の問題が世間を騒がせていた際、こんなことを体験されたのだとか:

同じ体験は『A2』撮影時にもあった。本編からは編集段階で落としたエピソードだが、住民による激しいオウム信者への排斥運動で話題になっていた池袋施設を撮影のため訪れたとき、排斥運動の前面に立っていた住民たちと複数の信者たちとのあいだに協調関係が生まれていることを知った。互いに名前で呼び合い、時には住民が信者の相談にのったりもしていた。外出する信者に、駅まで一緒に行くよと申し出た中年男性がいた。戸惑いながらキャメラを向ける僕に、「マスコミがついてきたらかわいそうだからさ」と、中年男性は照れくさそうに言った。頭には「オウム排斥!」とプリントされた鉢巻きを巻いている。

「マスコミから信者を守るんですか」

「みんなマスコミには呆れてるよ。施設に忍びこんだり隠し撮りをしたり。おまけに放送する内容は事実と全然違う。オウムが来てマスコミの正体がわかったことは収穫だよ」

現場に日参するマスメディアは、住民と信者との親睦や交流を、紙面には絶対に書かないし放送もしない。やはり信者と住民たちとのあいだで協調関係が生まれていた群馬県藤岡市の現場にいた若い新聞記者は、「書けるわけないでしょう」と爽やかな笑顔を見せた。

こういった話は、オウム真理教の事例に留まりません。有名な連続殺傷事件や無数のタブーなど、日本のマスメディアがいかにジャーナリズムから乖離しているか、様々な例が挙げられています。でも大丈夫!それを補っているのがドキュメンタリー(番組/映画)であり、これこそが日本を救う唯一の道なのだ……

……という主張であったら良かったのですが、森さんの議論はそんな簡単な構図では許してくれません。本書はドキュメンタリーもまた恣意性を免れ得ないものであること、対象との距離感のあり方や作為の許容範囲について激しい議論があること、等を指摘します。もしかしたら、本書の中でドキュメンタリーの問題点が指摘されている回数は、マスメディア批判の回数以上になっているかもしれません。

さらに話は、ドキュメンタリーが持つ攻撃性にまで及びます。例えば森さん自身、オウム真理教を対象にしたドキュメンタリー『A』の公開時に、こんな恐れを抱いたそうです:

でも、怯えていた理由はそれだけじゃない。他人を加害することへのためらいだ。作品からモザイクを一切排除することは、撮る前から決めていた。被写体となる信者たちのほとんどは、素顔を晒すことを決意してくれた。しかしできあがった作品には、モザイクなしを承諾した信者以外にも、匿名性を剥ぎとられた警察やマスメディア、市民たちの姿が、これ以上ないほどにグロテスクな実相として焼き付けられていた。

(中略)

不当逮捕に加担した警察官や盗み撮りをしたメディアのクルーにも、当然ながら親や子はいる。もし彼らの家族がこの映画を観たとき、何を思うだろう?父親なら息子に軽蔑されるかもしれないし、未婚の女性なら婚約者に捨てられるかもしれない。それがきっかけとなって彼や彼女たちの人生が大きな転回を迎える可能性は決して低くないし、自殺することだってあるかもしれない。作品によって派生するかもしれないそんな犠牲を承知で、お前は本当にこの映画を公開するつもりなのか?

僕はこの箇所を読んで、以前の秋葉原連続殺傷事件におけるネットの情報発信を思い出しました。あの時、批判の矛先は情報発信を行った人物本人に向かいましたが、仮に発信された情報の中に問題のある人物が含まれていたとしたら。例えば犠牲者を見捨てて走り去ろうとする男性や、一心不乱にケータイで事件現場を撮影しようとする女性が写っていたら。そしてそれを彼・彼女の知り合いが目にすることになったら……情報発信者は、自分が非難の対象となる場合以上のストレスを感じることになるのではないでしょうか?そんな状況に備えるために、私たちはいったい何を考えれば良いのでしょうか?

しかし森さんは、この点に関して方向性を示してくれてはいません。肝心の森さん自身が、故・土本典昭さんの(当時の)新作ドキュメンタリー映画を見終わった際の感想として、このような自信のない態度を見せています:

五十年間ドキュメンタリーを作り続けてきた土本にして、いまだにドキュメンタリーとは何か?と煩悶し続けている。僕は恥ずかしい。勢いや建前で景気の良い文章ばかり書いているが、本当のところは自分の言動に自信が持てなくて、毎日が不安で仕方がない。作品が侵害する他者のプライバシーという重要な論点についてすら、胸を張って断言できる言葉などひとつも持たないのだ。

多少自己を弁護すれば、この曖昧さはおそらく、ドキュメンタリーの本質なのだろう。他者のプライバシーという命題についても、正解や妙案などどこにもない。被写体の事情や都合を最優先順位に置くのならドキュメンタリーは成立しない。しかし他者の痛みなどのニュアンスに鈍感な作品なら観る価値などない。

ちょっと、優れたドキュメンタリー作品を世に送り出した監督にこんな言葉を言われてしまったら。ネットやデジタル機器の発達により、「世界に向けて情報を発信する力」を得たばかりの僕らは、どうやったら答えを見つけられるというのでしょうか?

結局のところ、思い惑い、揺れ続けることを持続し続けることなのだろう。己の信念、もっと直接に書けば、エゴだけが唯一の正解なのだと、痩せがまんや開き直りに近い断定に仮託するしかない。ルールや規範という線引きを(マスメディアのように)自らに課すことができるのなら、そのほうがきっと楽だ。でも僕はしない。なぜならその瞬間にきっと何かが停まる。瑣末だけどとても大事なことが。愚直ではあっても、同じことを何度も煩悶し続けるしかない。

長くなりましたが、僕はこの言葉に(少なくとも現時点では)依拠するしかないのではと感じています。秋葉原の事件の「ネット報道」については、様々な批判や議論が飛び出しました。仮に「ここまではOK、ここから先はダメ」というような線引きが行えたとしたら、どんなに楽でしょう。しかし森さんが仰る通り、そのような線引きをしてしまった瞬間に、自分を批判する精神が失われてしまうのではないでしょうか。「果たして発信して良かったのだろうか」「伝えるにしても、他の伝え方があったのではないか」と常に自問自答し続ける心がないと、いまのマスメディアのように、いつの日か決められた線引きを守ること自体が目的化していってしまうのではないかと思います。

以前言ったことの繰り返しになりますが、かつてはジャーナリズムやドキュメンタリーの現場に携る人々だけが感じていたこのような疑問や問題意識が、ネットとデジタル機器の発展によって一般人である僕らにも降りかかってきているのが現状ではないでしょうか。しかもある日突然、街を歩いていたら急に「あなたはこの情報を発信すべきか否か?」という問いを突きつけられる。そこで「はい」という選択肢に進む前に、「果たして僕は、この後にずっと続く議論に参加していく覚悟があるのか?」という問いが頭の中に浮かぶようにすること――少なくともそれだけは意識しておかなければならないのでは、と感じています。

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