私をアナウンサーへといざなったワールドカップ
こんにちは、元局アナの山森貴司です。
何を隠そう、私をアナウンサーに駆り立ててくれたのはワールドカップでした。
1993年のドーハの悲劇を見て、全身が震えるほどの興奮を与えてくれたサッカー、いや、フットボール。
当時私は大学生でしたが、結局アナウンサーなど夢のまた夢と思い、受験はほとんどしませんでした。
それが、1998年、フランス大会での初出場を現地観戦したことで、アナウンサーへの憧れが高まり、アナウンサーを目指し始めたのです。
サッカーを見始めるまでは、点数がなかなか入らず、ちっとも面白いと思ったことはありませんでした。
しかし、日本を背負っている「代表」が大好きな私は、当時Jリーグの開幕と相まって、代表フリークとなりました。
当時を振り返ってみると、本当によく行ったもんだと思います。
会社員だった私は、出場が決まった次の日から、会社で「フランスワールドカップに行きます」と宣言しました。皆さんも身に染みている通り、日本企業は休みがとりにくい。
言い続けることで、「山森はサッカーバカだからしょうがない」という雰囲気を醸成したわけです。試合は予選リーグ突破のカギを握る第2戦のクロアチアにしました。
当時、初出場の日本代表を見たいということで、会社を辞めた人も少なくありません。
また、「0泊3日」の弾丸ツアーが始まったのもこの時です。
チケット騒動なんて言うのもありましたね。外国のブローカーがチケットを大幅に空売りして、間際になってもチケットが届かない。私も巻き込まれました。
私は、チケットのみを手配していたのですが、出発3日前になってもチケットがない。
はたしてこの状態で行ってよいものか、同行する父と相談しました。
結論は「カズの代わりに君が代を歌って来よう」と、最悪スタジアム外での応援を覚悟して出発したのです。
首から「日本戦のチケットを探しています」と英語とフランス語で書いた紙をぶら下げて、外国人に笑われながら、フランスに前日に到着。結局チケットはまだ手に入らない。
いよいよ当日、TGVに乗って試合会場のナントに向かいました。
出口に出るとフランス人のチケット業者に囲まれ、チケットを購入。価格は3000フラン、当時のレートで72000円です。ここまで来たので迷わず決断しました。
会場に入ると、観客は9割が日本人でまるで国立競技場と錯覚したほどです。
あの地鳴りのような応援を私は忘れることができません。
試合は、残念ながら0-1と敗れました。
競技場を出た瞬間、そばの芝生に倒れこんでしまったことをよく覚えています。
パリに戻ると、中心地のパブは日本代表のサポーターばかり。
ヤケ酒とはまさにあの事でした。
その後も2000年のシドニーオリンピック、日本で行われた2001年のコンフェデレーションズカップも現地観戦しました。そして2002年、川崎フロンターレのスタジアムDJのお仕事を頂きました。まだ会社員でしたけれど。
私が会社を辞め、フリーアナウンサーとしてゼロからスタートを切ったのは、日本でワールドカップが行われたその年の秋のことです。
Jリーグの試合で実況練習するのは迷惑になるので、観客の少ないJFLや大学のリーグ戦を選んで現場で練習しました。未来のワールドカップ実況を目指して。
その後、テレビでプロ野球のレポーターや、ラジオで川崎フロンターレの応援番組をやらせていただいて、2005年に群馬テレビの局アナになりました。
まさに、フットボールが私をアナウンサーに導いてくれたのです。
ワールドカップの実況をやれる可能性のある、いわゆるキー局に入るには35歳がリミットでした。残念ながら、ワールドカップを実況することはできませんでしたが、アナウンサーになった経験は今の人生の根幹をなしているといっても過言ではありません。
海外組がスタメンの半分以上を占め、史上最強と言われる日本代表。ブラジルに行くことはできませんが、日本から魂を送りたいと思います。