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夏目房之介の「で?」

相倉久人『ジャズからの挨拶』68年

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相倉久人『ジャズからの挨拶』(音楽の友社 68年)

少し前に、中条省平先生の研究室に入ったとき目に入り、昔持っていたけど放出してしまったという話をしたら、貸していただけた。
ジャズ喫茶通いをしていた69~70年、大学1年の頃、僕は平岡正明と相倉久人のジャズ批評を読んでいた。当時、多くの大学生がジャズ喫茶に入り浸り、それは若者文化と対抗文化の身振りの一つだった。米国での反戦運動と黒人の権利運動は、反体制運動、さらに新左翼的なブッラク・パンサーへと急速に先鋭化していた。黒人たちは毎年のように暴動を起こし、そのニュースはTV映像で観られた。ビートニクスから継承しただろう日本の若者のジャズへの傾斜は、退廃の象徴から革命思想の表現へと見方を変化させ、平岡と相倉はその批評的表現だった。

平岡はもともと60年安保後の新左翼的運動から批評活動を始めており、ジャズ喫茶でのライブ現場によりそった相倉と合流して、ジャズの表現論と革命論を結び付けようとしていた。この本は、その理論を具体化した「ジャズの表現構造とあるいは活性化理論」(「ジャズ批評」68年)という文章を巻頭に所収している。黒人たちのパワーの源にリロイ・ジョーンズのいう「ブルース衝動」という概念を置き、この衝動を吉本隆明『言語にとって美とは何か』における「自己表出」概念にあてはめ、「指示表出-自己表出」という言語理解の枠組みを「客体(楽器とか)-主体」という対照に読み替えて、いわばわかりやすくジャズ表現論の骨子に仕立て直している。状況と主体のXY軸を見立て、その二つの間に45度で伸びる表現エネルギーの方向を考え、表現を関数的関係の中で描いて見せた。ちなみに、XY軸と合力の拡大する方向を逆にたどると鑑賞、共感のベクトルとなるという受容論になる(僕の表現論もこの対応関係を無意識に継承していた)。
率直にいって、頭の悪い大学生には吉本の表出論はよくわからず、こっちのほうがわかりやすかった。だから、大学生当時の僕のマンガ論は、むしろこっちの影響を強く受けていたと思う。本書では、まだ脆弱だった日本のジャズの底辺を渡辺貞夫、そこから「土着化」の方向に先鋭化する三角形の先端に山下洋輔らを置いた。多分、僕は何となくこの図式に、手塚-佐々木マキ、林静一などを当てはめてみていただろう。当時、ある意味では「民主主義」も「近代化」も「思想」そのものも、輸入されたコズモポリタン化された理想から、日本の歴史と状況に「土着化」すべきものとして知識人にみなされていた。そんな文脈の中で、この本を読むこともできる。

相倉のジャズ論は、政治意識が先鋭化すればジャズも音楽として先鋭化する、という単純な「反映」を批判していた(これら古典左翼的な文化論への批判でもあったはずだ)。むしろ、ジャズを、大衆的な基礎をもつブルースから、知的にも階層的にも上昇し遊離してしまった知識人の矛盾の表現として見ており、また現実の過激行動に衝動を吸い取られ、乗り越えられる可能性すら持つものとみる。
〈ジャズの突出力が、ジャズメンの戦闘意識に対応するものではないということである。〉(同書 p66 「ジャズの現代シーン」 「ポップス」 68年)
その源はあくまで〈大衆の土着的エネルギー〉(同書 p99 「『艶歌』とジャズ」 「日本読書新聞」 68年)にある。米国のフォークシンガーの表現の自律性もまた、アマチュアであることの〈歌手=聴衆〉(同書 p141 「グリニッチ・ヴィレッジのエネルギー」 「ポップス」 66年)という性格に求められる。こうしたアマチュアリズムもまた、この当時の「思想」として日本のニュー・ミュージックやロック、そして戦後世代のマンガ論の一部にもしのびこんでいたのだと思う。その一つの表現が反商業主義的な自己表現の奪回運動と、底辺的商業主義の交錯するエロ・マンガ(劇画)の現場からあらわれる亀和田武、米澤嘉博らの論であり、コミケへの流れでもあったのではないかと思う。

音楽を、主体の政治意識で計らず、〈「音」がすべてに先行する〉(同書 p206 「黒人ジャズとの連帯は可能か」(同書書き下ろし)として、作品・演奏の自律性を強調しながら、同時に社会状況や運動と回路をつなげようとする志向は、おそらく70年代のある種のマンガ論に影響を与えていた可能性があるし、僕自身も事実(公に発言はしていなかったものの)影響を受けていた。ただ、僕がやがてこの本や平岡の本の多くを手放してしまったように、それらは多分記憶の中で後景に退き、忘れられていった気がする。僕自身が「マンガ表現論」を構想したとき、吉本の『言語美』は読み返したが、この本は読み直していない(と記憶する)。
けれど、意識にあまり登らない領域で、吉本理論が相倉理論経由で入ってた可能性はあるだろう。こういうことは、多分僕や同世代で似た経験や経緯をもった人間が、現在回想できる範囲で触れる以外、なかなか見えにくいのではないだろうか。そんなこともあって、ちょっ変わった書評のような形で触れてみた。

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