オルタナティブ・ブログ > 成迫剛志の『ICT幸福論』 >

”情報通信テクノロジは人々を幸せにする”を信条に、IT業界やアジア・中国を見つめていきます。

1万円のUSBメモリーで音が良くなるのか? ~善良で賢い人ほどハマる10の心理トラップ~

»

「あなたの耳は、ほんとうに、その音を聴いていますか?」

オーディオ、ワイン、健康食品、投資、陰謀論、ビジネス書――

領域は違っても、ハマる人の心の中で起きていることは、ほとんど同じだった。

鈴本りえ:国民生活センターで二十年、騙された人の話を聴き続けてきた消費生活アドバイザー。

中村茂吉:動機づけられた推論を研究する大学教授。

成佐セニョ:日本に来て十二年、五つの怪しいビジネスに巻き込まれかけて全部見抜いた南米生まれのフリーター。

奇妙な三人組が、笑いと冷や汗のあいだで、人間の心の罠を解剖する。

 「耳が痛い、けれど止まらない。家族で一冊、回し読みすべき」

 「ワイン会、オーディオ店、投資セミナーの帰り道に読みたい本」

 「自分は大丈夫と思っている人ほど、最初の三十分でゾッとする」

 全10章。一晩で読める対談形式。読了後、世界の見え方が静かに変わる。

はじめに ――この対談が始まるまで

 この本は、ある編集者の思いつきから始まった。

 彼女は、ふだん消費者問題のムックを編集している。仕事柄、健康食品の高額契約、原野商法、未公開株、情報商材、霊感商法、そういう事件の記録を読み続けてきた。読み続けるうちに、彼女はある違和感を覚えるようになった。

 被害に遭うのは、決して、知的水準の低い人々ばかりではないのである。むしろ、医師、弁護士、教師、研究者、企業の管理職、退職した銀行員――社会的に「賢い」とされている人々が、驚くほど多く含まれている。

 なぜなのか。

 そこで彼女は、奇妙な組み合わせの三人を引き合わせた。

 ひとりは、鈴本りえ氏。消費生活アドバイザーとして二十年、騙された当事者から話を聴き続けてきた。彼女は被害者を見下すことを徹底的に拒んできた人で、「あなたが愚かだから騙されたのではない」と言い続けてきた。

 ひとりは、中村茂吉氏。地方大学の心理学教授。専門は社会心理学、特に動機づけられた推論と集団同一視。論文の引用件数より、ゼミ生に出す課題の鬼畜さで知られている。

 ひとりは、成佐セニョ氏。南米のある国に生まれ、十二年前に日本にやって来た。語学学校、解体工事、寿司屋の皿洗い、配達員、コールセンター、現在は派遣の倉庫作業員。日本語はうまい。来日以来、五つの怪しい誘いを受け、五つとも見抜いた。本人いわく「南米の貧困地区で育つと、騙そうとする人の顔つきは、子どもでも分かる」とのこと。

 この三人は、ある冬の夜、東京の小さな出版社の会議室で、初めて顔を合わせた。

 以下は、その対談の記録である。途中、何度も脱線し、何度も大笑いし、何度も気まずい沈黙が流れた。録音は十二時間に及び、編集者は半泣きで起こした。

 しかし、読み返してみると、これは単なる雑談ではなかった。それは、現代を生きる「善良で賢い人」たちが、なぜ、どのように罠にはまるのかを、当事者と専門家とアウトサイダーの三つの目で解剖した、稀有な記録だった。

 お楽しみいただきたい。そして、できれば、最後まで読み終えたあと、自分の本棚や、自分のクレジットカードの明細や、自分が最近よく見ているSNSのタイムラインを、もう一度、静かに眺めてほしい。

 二〇二六年 春 編集部

対談者紹介

 鈴本りえ/消費生活アドバイザー 五十二歳

 地方都市の生協職員から国民生活センター相談員を経て独立。被害事例の聞き取り件数、推定四千件超。口癖は「人は商品を買ってるんじゃない、物語を買ってるの」。家では夫の電子工作の趣味に振り回されているが、それは趣味としては健全なほうだと判定済み。

 中村茂吉/社会心理学者 六十一歳

 地方国立大学教授。専門は動機づけられた推論、内集団びいき、認知的不協和。学生時代に新興宗教の勧誘に三か月間「研究のため」と称して通い詰め、最後は本気で迷ったという過去を持つ。趣味は将棋と、自分の専門知識を日常会話で使わないこと。

 成佐セニョ/フリーター 三十六歳

 南米某国生まれ。父は機械工、母は小学校教師。日本にやって来た理由は「アニメではなく、自国経済が崩壊したから」。来日後、語学学校で日本人女性と出会い、結婚。現在は派遣の倉庫作業員。日本の財政システムを「立派だがゆえに動けない巨大な建物」と評する独特の経済感覚を持つ。

第一章 なぜ私たちは「五千円のワイン」を「五万円」と思うのか

テレビの高額品当てクイズ、あの違和感の正体

鈴本 それでは、始めましょうか。最初は軽い話題から行きたいんですけど、皆さん、テレビでよくある『芸能人格付けチェック』みたいな番組、ご覧になりますか。

中村 ああ、あれね。一流の人ほど分かる、二流の人にはわからない、と称して、五万円のワインと五千円のワインを飲ませて当てさせるやつ。

セニョ 私、あの番組大好きなんですよ。日本に来てすぐの頃、日本語の勉強のために見てたんです。最初は、芸能人はすごいなあと思ってました。今はもう、別の意味で楽しんでます。

鈴本 別の意味、というと?

セニョ あの番組、私の見るかぎり、半分ぐらいは外してますよね。高級バイオリンとアマチュア用バイオリン、高級肉と普通の肉、超一流オーケストラと音大生のオーケストラ。プロの音楽家でも、よく間違える。

中村 そう、それです。あの番組の本当の意義は、『当たる人がすごい』ことではなくて、『プロでも、ブラインドだと、けっこう外す』ことなんですよ。あれは、はからずも、心理学の壮大な実験になっている。

鈴本 私、消費生活センターで相談を受けていた頃、本当によく聞いたんですよ。『プロが認めた』『本物の味が分かる人だけが分かる』『耳の肥えた人だけが違いを聴き取る』。これ、もう、危険キーワードです。

セニョ 私、南米にいた頃、おばあちゃんに教わったんです。『誰々だけが分かる』と言われたら、誰々にお金を払わせるつもりだと思いなさい、って。

中村 セニョさんのおばあさん、社会心理学者になれましたね。

セニョ おばあちゃんは小学校しか出てないですけど、騙された人を六十人ぐらい見てきたそうです。実地教育ですね。

ワイン研究の衝撃――専門家がラベルに騙される

中村 ワインの話で面白いのが、ボルドー大学のフレデリック・ブロシェという研究者が二〇〇一年頃にやった実験です。彼はワインのプロ五十四人に、二本のワインを試飲させた。一本は高級ワイン用のボトルに入っている、もう一本は安いテーブルワイン用のボトルに入っている。実は、中身は同じワインなんです。

鈴本 結果は予想がつきますね。

中村 ええ。プロたちは、高級ボトルに入ったワインを『複雑、奥行きがある、エレガント』と評し、安ボトルに入った同じワインを『単純、弱い、欠点がある』と評した。同じワインです。同じプロです。

セニョ プロが、ですか。

中村 そう、プロが、です。さらに彼は別の実験で、白ワインに無味の食用色素を入れて赤く染めた。そしてそれをプロに試飲させたら、彼らは堂々と『赤ワインの香り』を語った。タンニン、革、赤い果実、燻製の香り、と。

鈴本 うわあ。

セニョ 私、それ、笑っていいやつですか。

中村 笑っていいです。プロたちは嘘をついているのではない。彼らは本気でそう感じている。視覚の情報が、彼らの嗅覚と味覚を、本当に書き換えてしまうのです。

鈴本 これが大事だと思うんです。専門家を疑え、と言いたいんじゃないんですよ。専門家ですら、自分の感覚を、外部情報で書き換えられてしまう。私たち素人なら、なおさらだ、ということです。

セニョ じゃあ、五万円のワインを『おいしい』と感じてる人は、ワインの味じゃなくて、五万円という数字の味を感じてるんですね。

中村 セニョさん、それ、論文のアブストラクトに使えます。

値段を見せられただけで脳が変わる

中村 もう一つ重要な研究があります。プラスマンらが二〇〇八年に発表したもので、被験者にワインを飲ませながらfMRIで脳活動を測定した。同じワインを、『これは十ドルのワインです』『これは九十ドルのワインです』と告げて飲ませると、九十ドルと言われたほうが、脳の報酬系――内側眼窩前頭皮質という部位――の活動が強くなった。

鈴本 脳が、ですか。

中村 脳が、です。これは『気のせい』ではない。本当に、その人は強く快楽を感じているんです。脳の生理的反応として。

セニョ じゃあ、五万円のワインを買って『美味しい』と言ってる人は、嘘をついてないんですね。

中村 嘘ではない。ただ、彼が味わっているのは、ぶどうの味ではなく、五万円という情報が脳の中で作り出した味なんです。

鈴本 私、これ、消費者教育の現場で何度も話したいんですけど、伝えるのが難しくて。『あなたが美味しいと思ったのは気のせいですよ』と言うと、皆さん、すごく怒るんです。

セニョ そりゃ怒りますよね。自分の感覚を否定されるんですもん。

中村 ここが大事なところで、感覚を否定する必要はないんです。感覚は本物なんですから。問題は、その感覚が『何によって作られたか』を、ちゃんと見ようとするかどうか。

オーディオの『黒背景』論争

鈴本 オーディオの話、聞いていいですか。私、これ、本当によく相談を受けるんです。八万円のUSBケーブル、十二万円の電源タップ、三十万円のインシュレーター。買ったあとに『あれ、本当に違うのかな』と不安になって、相談に来られる方が。

中村 オーディオ業界は、心理学的には非常に興味深い領域です。特に『高級デジタルケーブルで音が良くなる』という主張。

セニョ デジタル、ですよね。0と1ですよね。

中村 そう、デジタル信号です。理論的には、0が0として、1が1として届けば、それで終わりです。途中の経路で電気的なノイズが乗ろうが、最終的に正しいビット列が再現されれば、音は同じになる。

鈴本 でも、業界の人は『ジッターが』『グラウンドが』『電源インピーダンスが』と言うんですよ。

中村 それらの概念は、もちろん存在します。問題は、その効果が人間の聴覚で識別可能なレベルなのか、ということ。これも、ちゃんと二重盲検法でやられた実験があるんです。ASA――アメリカ音響学会の機関誌に載った論文で、訓練されたリスナーであっても、千円のケーブルと十万円のケーブルを、偶然と区別できる確率で当てることはできなかった。

セニョ じゃあ、家電量販店で『音場が広がります』『黒背景が深くなります』って言ってる店員さんは、嘘をついてるんですか。

中村 彼ら自身は嘘をついていないかもしれません。本当にそう聴こえていると思います。先ほどのワインのプロと同じです。

鈴本 でも、私が困るのはここなんですよ。『嘘をついていない』と『正しい』は別なんですよね。誠実な人が、誠実に間違っていることがある。

中村 そう、それが今日の対談の核心です。罠は、悪人によって仕掛けられているとは限らない。誠実な人が、誠実に間違って、誠実にあなたを巻き込む。そのほうが、はるかに見抜きにくい。

セニョ 悪人なら逃げられるけど、いい人だと逃げられない。

鈴本 そうなんです。だから消費者問題は難しい。

『違いが分かる人だけが分かる』という呪文

鈴本 私、現場で気づいた共通点があるんですけど、聞いてもらっていいですか。

中村 どうぞ。

鈴本 高額オーディオ、高級ワイン、高額エステ、健康食品、高額セミナー、新興宗教、霊感商法、自己啓発講座、ネットワークビジネス、未公開株、暗号資産の怪しい案件。これら全部、ある共通フレーズを使うんですよ。

セニョ なんですか。

鈴本 『分かる人にしか、分かりません』。

中村 ああ、これは強力ですね。心理学的に分析すると、この一言には三つの効果がある。第一に、相手をエリート集団に入れる予感を与える。第二に、批判的な質問を封じる――質問するということは『分かっていない側』であることを自白することになる。第三に、効果がなかった場合の責任を、商品ではなく購入者に転嫁する。

セニョ 三段攻撃ですね。

鈴本 そうなんです。『分かる人にしか分かりません』と言われた瞬間、もう、買う前に、私たちは『分かる側』に立つことを心理的にコミットさせられているんです。

中村 そして、買ってから『分かりませんでした』と言うのは、自分が『分からない側』だと公言することになる。だから、買った人は、ほぼ全員が『分かりました』と言う。

セニョ サンプル全員が陽性、みたいなことですね。

中村 セニョさん、いい例えです。

鈴本 皆さん、この『分かる人にしか分かりません』というフレーズを聞いたら、まず一歩下がってください。これ、現代の消費社会の最強の呪文です。

第二章 動機づけられた推論――頭がいい人ほど上手に間違える

『欲しい結論』が先に来る

中村 第二章は、ちょっと専門的な話から入っていいですか。動機づけられた推論、英語ではmotivated reasoningと呼ばれる現象です。

セニョ むずかしそうですね。

中村 いや、簡単です。人間は、事実から結論にたどり着くだけじゃない。先に欲しい結論があって、そこに事実をフィッティングさせる方法でも考える、という話です。

鈴本 中村先生、もっとわかりやすくお願いします。

中村 じゃあ例えば、鈴本さんが八万円のUSBケーブルを買ったとします。

鈴本 買いません。

中村 仮定です、仮定。買ったとします。そして家で聴く。さて、ここで二つの可能性がある。違いがある、または、ない。

鈴本 はい。

中村 もし違いがなかった、と認めると、何が起きますか。

鈴本 八万円が無駄になります。あと、買おうと判断した自分が、おバカさんに思えます。

中村 そう。だから人間の脳は、無意識のうちに、こう考え始める。『違いがあるはずだ』。これが、欲しい結論。そして、そこから逆算して、もっともらしい理屈を集め始める。『そういえば、ボーカルが前に出た気がする』『シンバルの余韻が違う気がする』『静寂感が増した気がする』。

セニョ 気がする、ばかりですね。

中村 そう、ほぼ気のせいです。しかし重要なのは、本人は嘘をついていない。本当にそう感じている。脳が、欲しい結論に合うように、感覚情報を選別し、強調し、解釈しているからです。

『頭がいい』ことが、罠への入場券

鈴本 私、長年見てきて思うんですけど、被害に遭うのって、決して頭の悪い人ばかりじゃないんですよ。むしろ、知的水準の高い人ほど、重症化することがある。

中村 それ、心理学的にはほぼ定説になっています。ダン・カハンというイェールの研究者がいて、彼はこんな実験をやった。被験者に統計データを見せて、結論を導かせる。データの解釈には、ちょっとした数学の知識が必要。

セニョ 中学校レベルですか。

中村 ええ、それぐらい。さて、データが中立的なテーマ――例えば肌のクリームの効果――について書かれているときは、数学が得意な人ほど、正しい結論にたどり着いた。これは普通のことです。

鈴本 頭がいい人のほうが、正解する。

中村 ところが、同じデータを政治的にセンシティブなテーマ――銃規制の効果――に書き換えて、再度実験すると、結果が変わる。数学が得意な人は、データが自分の政治的信念と合致するときは正しく解釈するが、信念と矛盾するときは、データを誤って解釈する確率が高くなる。

セニョ 数学が得意な人のほうが、間違える?

中村 そう。なぜか。なぜなら、頭がいい人は、自分の信念と矛盾するデータを、頭の良さを使って『骨抜きにする』能力が高いからです。『この統計には、こういう問題があって、本当はこう解釈すべきで』と、後付けの理屈をいくらでも作れる。

鈴本 頭の良さが、間違いの保護装置になっている。

中村 そう。皮肉なことに。だから、自分は賢いから騙されない、と思っている人が一番危ない。

セニョさんの五つの誘い

鈴本 セニョさん、来日してから怪しい誘いを五つ受けて全部見抜いた、と聞きましたが、どんな話だったんですか。

セニョ ええと、五つというか、もうちょっとあったかもしれません。覚えてる範囲で言いますね。

セニョ 一つ目、語学学校の同級生から、健康食品のネットワークビジネス。ブラジル産の何とかフルーツの粉末で、これを売ると階層が上がって、いつか月収百万円になるという話。

中村 古典的MLMですね。

セニョ 二つ目、コールセンターで働いてたときの上司から、不動産投資セミナー。サラリーマンが資産家になる方法。

鈴本 セミナー商法の入口ですね。

セニョ 三つ目、コインランドリーで知り合った日本人のおじさんから、ある宗教の集まり。最初は『フリーマーケット』に誘われて行ったら、終わってから祈祷の話になった。

中村 段階的な勧誘。

セニョ 四つ目、SNSで知り合った人から、暗号資産のアービトラージ。海外取引所と日本取引所の差を使って、確実に利益が出るという話。

鈴本 ザ・ポンジスキーム前兆。

セニョ 五つ目、これは妻に怒られたんですけど、近所のオーディオ店で、店主さんから、十万円のUSBケーブルを勧められました。

鈴本 セニョさん! 五つ目だけ毛色が違いますよ!

セニョ 私もそう思ったんですけど、店主さんがあまりに自信満々で、しかも『南米の方は耳がいいんですよ』と言われて、ちょっとぐらっと来ました。

中村 うまいですね、その店主。出身国アイデンティティを使ってきた。

セニョ でも、店を出たあと、妻に電話したら、『十万円あったら家族で温泉行けるでしょ』と一言で終わりました。

鈴本 奥さん、有能。

セニョさんはなぜ見抜けたのか

鈴本 セニョさん、五つ全部見抜いた秘訣は何ですか。

セニョ うーん、私、頭がいいわけじゃないんですよ。日本人の同僚のほうが、ずっと頭いいです。私、簡単な漢字も書けないし、税金の計算も苦手です。

中村 では、なぜ見抜けたのでしょう。

セニョ たぶん、私には『欲しい結論』がなかったからだと思います。

鈴本 ああ。

セニョ 私、日本に来た理由が、夢でも憧れでもないんです。国の経済が崩壊して、家族を養うために来ただけです。だから、『一発逆転したい』とか『すごい人になりたい』とか、あんまり持ってないんです。家族が食べられて、子どもが学校に行けて、たまに焼肉が食べられたら、それで十分なんです。

中村 セニョさん、それは、心理学的に最強の防御です。

セニョ そうですか。

中村 動機づけられた推論は、欲しい結論があるところに発動する。欲しい結論がなければ、推論は事実に従う。だから、人生に大きな欲望がない人ほど、騙されにくい。

鈴本 でも、これって、皮肉ですよね。資本主義社会って、欲望を煽る社会じゃないですか。『もっと豊かに』『もっと若く』『もっと美味しく』『もっと違いの分かる人に』。

中村 そうなんです。欲望を煽れば煽るほど、人は動機づけられた推論に陥りやすくなる。だから、現代社会は、構造的に騙されやすい社会なんです。

セニョ 私、貧しい国から来てよかったかもしれません。

鈴本 セニョさん、すごい知恵を持ってますよ、それ。

第三章 認知的不協和――外れた予言ほど信念を強める

『予言が外れた』とき、人は何をするか

中村 今度は古典的な話を一つ。社会心理学に『認知的不協和』というよく知られた概念があります。提唱したのはレオン・フェスティンガーで、彼の研究の中で有名なのが『予言が外れたとき』のフィールドワークです。

セニョ 予言、ですか。

中村 ええ、ある終末論的なグループを、フェスティンガーたちが密かに調査したんです。指導者の女性が、宇宙人からのメッセージを受け取ったと称して、何月何日に大洪水が起き、世界が滅び、信者だけが空飛ぶ円盤に救われる、と予言した。

鈴本 ありそうな話ですね。

中村 信者たちは仕事を辞め、財産を処分し、家族と決別し、その日を待った。さて、当日、何も起きなかった。

セニョ あ、ふつう、目が覚めますよね。

中村 ふつうは。ところが、です。一部の信者たちは、目が覚めるどころか、信仰を強めた。指導者が再度メッセージを受け取り、こう告げた。『あなたたちの祈りが、地球を救ったのだ』。

鈴本 うわあ。

中村 そしてその信者たちは、それまで以上に熱心に、布教を始めたんです。

セニョ なんで、ですか。

中村 認知的不協和、です。仕事を辞め、財産を処分し、家族と決別した。その後で『予言は嘘でした』と認めることは、心理的にあまりに苦しい。だから、不協和を解消するために、信念のほうを強化する。『私たちが正しかった』『私たちの祈りで地球が救われた』『だから、これからも信じよう』。

鈴本 私、これ、現場で何度も見てきました。被害が大きい人ほど、被害を認めにくい。

『騙されている』と認めるのは、こんなにつらい

鈴本 未公開株詐欺の相談者で、本当に印象に残っているお父さんがいたんです。退職金を全部、ある未公開株に投じた。三千万円。一年後、その会社は実在しないことが判明した。

セニョ 三千万円。

鈴本 彼が私のところに来たのは、被害が発覚してからさらに一年後でした。家族に何度も『あれは詐欺だ』と言われていたけれど、彼はずっと『いや、まだ希望はある』『再生計画が動いている』『弁護士が動いている』と言い張っていたそうです。

中村 完璧な認知的不協和ですね。

鈴本 私が初めて会ったとき、彼の最初の言葉は、『鈴本さん、私は騙されていません。これは一時的な経営上のトラブルです』だったんです。三千万円が消えて、二年が経って、なお、彼は『騙されていない』と言った。

セニョ それは、つらいですよ。だって、騙されたって認めたら、自分が、人生で一番大きな判断を、間違えたって認めることになるんですよね。

中村 セニョさん、すごくいい言語化です。認知的不協和は、本人の知的能力の問題ではなくて、自尊心の問題なんです。

鈴本 私、その方に三年間、寄り添ったんですけど、最終的に彼が『騙されました』と言えたのは、奥さんが認知症で施設に入った後でした。

セニョ なぜですか。

鈴本 彼の中で『家族を裕福にするために投資したんだ』という物語が、奥さんが施設に入ったことで、もう守れなくなったんです。物語が崩れたとき、彼はようやく、現実を見ることができた。

中村 信念は、事実によって崩れるのではなく、その信念を必要としていた状況が変わったときに、崩れる。

鈴本 そうなんです。だから、外から『目を覚ませ』と言っても、無理なんです。

オーディオマニアの『エージング』理論

セニョ 中村先生、私、オーディオの世界で面白いと思った言葉があるんです。『エージング』ってやつ。

中村 ああ、はいはい。新品のケーブルやスピーカーは、ある程度使い込まないと、本来の性能が出ない、という主張ですね。

鈴本 現場でもよく聞きます。『最初は違いが分からなかったけど、二百時間使ったら、ぐっと音が良くなった』。

中村 これは認知的不協和の解消装置として、ほぼ完璧に設計された概念です。

セニョ どうして?

中村 考えてみてください。八万円のケーブルを買って、家で聴く。違いがわからない。さて、ここで二つの解釈が可能になる。『このケーブルは効果がない』、または、『まだエージングが進んでいない』。

鈴本 後者を選ぶと、希望が持てる。

中村 そう。しかも、エージングは何時間とも何日とも明確に定義されていない。だから、『まだ足りないんだ』と無限に言い続けられる。

セニョ 永遠に終わらない料理みたいですね。『もう少し煮込めば美味しくなる』と言い続ければ、永遠に煮込み続けられる。

中村 セニョさん、また論文に使えそうな比喩を。

鈴本 宗教でも同じ構造ありますよね。『あなたの祈りが足りないから、ご利益がないんです』。

中村 そう、まったく同じ構造です。効果がない理由を、商品やサービスではなく、消費者の側に押し付ける。

セニョ うわ、これ、いろんなところで使われてますね。ダイエット商品の『二か月続けないと効果が出ません』とか。

鈴本 英会話教材の『継続が大事』とか。

中村 投資セミナーの『マインドセットの問題です』とか。

第四章 サンクコスト――引き返せないのは、引き返したくないから

払ったお金は、なぜか『取り戻したくなる』

中村 次は、サンクコスト効果です。これは経済学にも心理学にも出てくる概念で、すでに支払って取り戻せないコストを、判断に組み込んでしまう傾向のことです。

鈴本 これ、本当によく出てきますね。

中村 古典的な実験で、アークスとブルマーが一九八五年にやったものがあります。スキーリゾートのチケットを百ドルで買った、と想像してください。直前に、別のリゾートのチケットが五十ドルで売られていることを知った。あなたは、こちらのほうが楽しめると確信している。さらに、同じ日にしか使えない。さあ、どちらに行きますか。

セニョ うーん、五十ドルのほう、ですよね。だって、楽しめると思ってるから。

中村 論理的にはそうです。百ドルはもう取り戻せない――サンクコスト――んだから、これからの選択は、楽しめるかどうかだけで決めるべきです。

鈴本 でも、多くの人が、百ドルのほうを選ぶ。

中村 ええ、半分以上が百ドルを選ぶ。『百ドル払ったのに行かないのは、もったいない』と感じるからです。これがサンクコスト効果。

セニョ それ、私、わかる気がします。

『今やめたら、これまでの何だったの問題』

鈴本 高額オーディオの話に戻りますけど、これ、サンクコストの宝庫なんですよ。

中村 はい。最初の一本のケーブルは八万円。これだけなら、まだ撤退できます。

鈴本 でも、それから電源タップを十二万円で買い、ノイズフィルターを六万円で買い、専用LANケーブルを九万円で買い、専用DACを五十万円で買い、ルームチューニングを三十万円かけて、気づいたら二百万円。

セニョ 二百万円。

鈴本 ここでブラインドテストをやって『違いがありませんでした』なんて結果が出たら、その人はどうなるか。

中村 二百万円が、ほぼ無駄だったと認めることになる。さらに、これまでSNSで語ってきた言葉、コミュニティでの自分の評価、妻に『君の耳には分からない』と言ったあの夜、すべてが間違いの上に立っていたことになる。

セニョ それは、認められないですね。普通の人間には、無理です。

鈴本 だから、ブラインドテストをやらない。または、やっても、結果を見ない。または、結果を見ても、テスト方法を疑う。

中村 サンクコスト効果と認知的不協和が、ここで連携プレーで作動するんです。

人間関係も、サンクコストになる

鈴本 私が現場で見てきて、お金よりも厄介なサンクコストがあるんです。

中村 なんでしょう。

鈴本 人間関係です。

セニョ ああ。

鈴本 ネットワークビジネスにハマった方が、抜けられない最大の理由は、お金じゃないんですよ。友人や家族を勧誘したからなんです。

中村 なるほど。

鈴本 『この商品は素晴らしい』『この働き方は人生を変える』と、自分の口で、家族や友人に語った。その人たちも入会した。そして、儲からない。

セニョ ここでやめると、家族と友人に、自分が間違っていたと言うことになる。

鈴本 そうなんです。お金以上に、これが抜けられない。だから、深みにはまる。『もっと頑張れば、上位ランクに行けば、いつか報われる』と。

中村 言葉も、サンクコストになる。SNSで何年も、ある政治的立場や陰謀論を発信してきた人が、それを撤回するのは、過去の自分の発言全部を撤回することになる。だから、できない。

セニョ 発言量が多ければ多いほど、撤退できなくなる。

鈴本 発信時代の罠ですね。昔は、自分の意見は家族と居酒屋でしか喋らなかった。撤回も簡単だった。今は、千人のフォロワーが見ている前で意見を表明する。撤回したら、千人に見られる。

中村 SNSは、サンクコストを公開して可視化する装置です。だから、現代人は、ますます意見を変えにくくなっている。

セニョさん、五つ目の話

中村 セニョさん、さっきオーディオ店の十万円のUSBケーブルの話、もう少し聞かせてください。なぜ、ぐらっと来たのに、買わずに帰れたんですか。

セニョ 妻に電話したから、というのもあるんですけど、もう一つ理由があって。

鈴本 なんでしょう。

セニョ 私、十万円持ってませんでした。

鈴本 あー!

中村 セニョさん、それは強力な防御です。

セニョ ローンで買えますよ、と言われたんですけど、私、ローンというものを、子どもの頃から信じてないんです。南米では、ローンを組むのは、最後の手段なんです。家族が病気になったときとか。趣味でローンを組む、というのは、私の文化には、ないです。

鈴本 セニョさんのご出身国、見習いたいですよ。

中村 サンクコストは、お金がない人には発動しません。なぜなら、最初のお金を払えないから。

セニョ 貧乏は、ときに、防御になる。

鈴本 セニョさん、今日は、名言が止まりませんね。

第五章 社会的アイデンティティ――『分かる人たち』の甘い罠

人は、情報ではなく集団に属する

中村 ここからは、集団の話をしましょう。社会心理学の中で最も影響力のある理論の一つに、タジフェルとターナーの社会的アイデンティティ理論があります。

セニョ また難しそうですね。

中村 簡単に言うと、人間は単独で考えているように見えて、実際には『自分はどの集団の一員か』という所属意識が、信念や行動を強く規定している、という話です。

鈴本 ああ、これは現場でも痛感しますね。

中村 オーディオマニアは、単に音を聴いているのではない。『違いが分かる人たち』の共同体に属している。

鈴本 ネットワークビジネスの参加者は、単に商品を売っているのではない。『夢に向かう仲間』の共同体に属している。

セニョ 陰謀論を信じる人は、単に情報を信じているのではない。『騙されない、目覚めた人たち』の共同体に属している。

中村 セニョさん、要約うますぎませんか。

セニョ 私、コールセンターで日本語の電話対応の練習を二年間やったんですよ。要約は、慣れです。

『分かる人たち』というエリート意識

鈴本 オーディオの世界で、私がいつも引っかかるのが、独特のエリート意識なんです。

中村 ええ、ありますね。

鈴本 音の違いが『分かる』というだけで、なんとなく、自分は感性が豊かで、文化的水準が高く、安いものを使っている人たちより上位の人間である、という感覚が漂う。

セニョ ワインも同じですよ。

鈴本 ワインも、コーヒーも、紅茶も、シガーも、万年筆も、カメラも、自転車も、釣り竿も、時計も、似たような構造を持っていますね。

中村 趣味そのものは健全です。問題は、その趣味が『分かる側』『分からない側』という階層意識と結びついたときです。

鈴本 心理学的に言うと、これは何という現象ですか。

中村 内集団びいきと外集団蔑視、です。自分の所属する集団――内集団――を実際以上に肯定的に評価し、所属しない集団――外集団――を実際以上に否定的に評価する傾向。

セニョ それ、人間の標準装備みたいなものですか。

中村 ほぼ標準装備です。タジフェルの『最小条件集団実験』では、被験者をランダムに二つのグループに分けただけで――何の意味もない分け方ですよ――それでも、人々は『自分のグループ』をひいきし始めた。

鈴本 意味のない区別でも、ですか。

中村 ええ。だから、『違いが分かる人』『目覚めた人』『本物を知る人』というラベルが与えられた瞬間、人はそのラベルを守るために、認知を歪める用意ができる。

テレビ番組『芸能人格付けチェック』再論

セニョ ちょっと一つ目の章に戻っていいですか。あのテレビ番組、『芸能人格付けチェック』。私、あの番組、社会心理学の縮図だなと思って。

中村 どういう意味で。

セニョ あの番組、当てた人を『一流』、外した人を『二流以下』にカテゴライズしますよね。最後まで全問正解すると、ものすごい名誉なんですよ。司会者が大声で『この方こそ一流芸能人!』と。

鈴本 あれは、芸能人にとって、本当に価値ある称号なんでしょうね。

セニョ だから、芸能人は必死に当てようとする。直感ではなく、論理で。『値段が高いほうは、こういう特徴があるはずだ』『プロが選ぶなら、こちらだろう』と。

中村 そして、よく外す。

セニョ そうなんです。私が面白いと思うのは、外した芸能人が、二流コーナーに行かされて、悔しがる姿なんですよ。彼ら、自分の味覚が外れたことより、『分かる側』のグループから外されたことに、ショックを受けてるんですよね。

中村 セニョさん、これは本当に鋭い観察です。社会的アイデンティティ理論の教科書に載せたいレベルです。

鈴本 つまり、あの番組のリアルなドラマは、味覚や聴覚ではなく、所属集団をかけた闘いだったわけですね。

セニョ そう。だから、視聴者も熱狂する。あれは、味覚クイズではなく、所属クイズなんです。

中村 そして視聴者は安全な位置から、誰が一流、誰が二流かを眺める。自分は当事者ではないので、リスクなしに集団のヒエラルキーを観察できる。これは、人類の根源的な娯楽です。

鈴本 古代ローマのコロッセオから、何も変わってないんですね。

コミュニティが信念を補強する

鈴本 オーディオでも、ワインでも、陰謀論でも、ネットワークビジネスでも、宗教でも、私が現場で必ず見るのが、コミュニティの力です。

中村 ええ。

鈴本 一人で信じている分には、まだ揺らぐ余地があるんです。でも、同じことを信じている仲間ができると、もう、揺らがなくなる。

中村 これは集団極化と呼ばれる現象です。同じ信念を持つ人々が集まって議論すると、議論の前より、議論の後のほうが、信念が極端になる傾向がある。

セニョ なんでですか。

中村 互いに、信念を支持する情報を提供し合う。反対の情報は、誰も持ち込まない。さらに、より強い意見を述べる人ほど、グループ内で評価される。だから、人々は、徐々に、より強い意見を述べるようになる。

鈴本 現代のSNSは、これを自動化する装置ですよね。アルゴリズムが、同じ信念を持つ人々をつなげ、反対の情報を表示しない。

中村 エコーチェンバー、フィルターバブルと呼ばれる現象です。SNS時代の最大の心理的危険は、これだと思っています。

セニョ 私、SNSをほとんど使わないんですけど、それも防御になってますかね。

中村 ええ、強力な防御です。

鈴本 セニョさん、あなた、現代社会で生きるための完璧なライフスタイルを偶然手に入れてますよ。お金がなくて、欲望がなくて、SNSを使わない。

セニョ そう聞くと、なんだか、ありがたみが減りますね。

第六章 陰謀論――不安の処理装置としての『真実』

人はなぜ、陰謀論に惹かれるのか

中村 次は、陰謀論の話をしましょう。これは現代社会で、私がもっとも心配している現象の一つです。

鈴本 私のところにも、家族が陰謀論にハマって、という相談が増えてます。

中村 陰謀論の心理学を、ダグラスらが二〇一七年に整理しています。彼らは、人が陰謀論を信じる動機を、大きく三つに分類した。第一に、世界を理解したいという認識的動機。第二に、安全でいたい、コントロール感を取り戻したいという実存的動機。第三に、自分や自分の集団を肯定的に見たいという社会的動機。

セニョ 三つとも、すごく普通の人間の欲求ですね。

中村 そう。だから、陰謀論にハマるのは、特殊な人ではない。むしろ、これらの欲求が強く満たされていない普通の人ほど、ハマりやすい。

複雑な世界に、単純な答えを

鈴本 現代社会って、本当に複雑じゃないですか。経済、政治、医療、国際情勢、AI、気候変動。どれも、専門家の中でも意見が割れる。

中村 ええ、一介の市民が、これらすべてを正しく理解するのは、ほぼ不可能です。

鈴本 でも、人は答えが欲しい。なぜ自分は豊かになれないのか、なぜ日本経済は停滞しているのか、なぜ自分の子どもは病気になったのか。

セニョ 難しい問題に、複雑な答えを聞いても、私たちは納得できないんですよね。

中村 そう、人間の脳は、複雑な答えを処理することが、得意ではない。だから、単純で、明確で、悪役がはっきりしている物語に、強く惹かれる。

鈴本 『すべては財務省のせいだ』『すべては製薬会社の陰謀だ』『すべては在日が悪い』『すべてはディープステートが』。

中村 こうした単純な物語は、しばしば事実として間違っている。しかし、心理的には、非常に魅力的です。世界を理解した気にさせ、不安を処理し、悪役を提供し、自分は『騙されていない側』にいるという誇りを与える。

セニョ 薬みたいですね。

中村 セニョさん、まさにその通り。陰謀論は、心理的な薬物です。中毒性があり、効きすぎる。

『目覚めた』という快感

鈴本 私、ある相談者で、陰謀論に深くハマった元高校教師の方がいたんです。

中村 どんな方でした。

鈴本 理科の先生で、定年退職して、奥さんを早くに亡くしていて、子どもは独立。コロナ禍で、家で長時間SNSを見るようになって、徐々に深みにはまった。最終的には、世界はある秘密結社に支配されていて、その結社が病気と戦争と貧困を作っている、というところまで行った。

セニョ 深いところまで行きましたね。

鈴本 ご家族からの相談で、私が会いに行ったんです。お話ししてみて、印象的だったのは、その方が、すごく『生き生きしていた』ことなんですよ。

中村 ああ。

鈴本 退職後、孤独で、社会と切り離されたと感じていた方が、初めて『重要な真実を知っている自分』『騙されていない自分』『仲間とつながっている自分』を取り戻したんです。

セニョ 陰謀論が、彼の人生を救った、と。

鈴本 そう、ある意味では。だから、これを『間違ってますよ』と外から言っても、絶対に受け入れない。彼から陰謀論を取り上げることは、彼から生きる意味を取り上げることになるんです。

中村 これは難しい。事実を訂正することが、人を孤独に戻すことになる。

鈴本 だから、陰謀論にハマった家族を持つ方には、私はいつも言うんです。論破しないでください、と。論破は、その人の居場所を奪うだけです。

セニョ じゃあ、どうすれば。

鈴本 別の居場所を作ることです。家族との時間、共通の趣味、地域の活動、ペット、ボランティア。陰謀論の代わりに、リアルなつながりを提供する。

中村 鈴本さん、これは本当に重要なポイントです。事実だけでは、人は変わらない。事実は、居場所と一緒に提供されないと、機能しない。

中村先生の若き日の話

鈴本 中村先生、お聞きしていいですか。プロフィールに『学生時代に新興宗教の勧誘に三か月間通った』とありますが。

中村 ああ、それですか。私の青春の汚点であり、研究者としての原点でもあります。

セニョ 聞きたいです。

中村 二十一歳のときです。大学院に入ったばかりで、研究テーマも決まらず、彼女と別れたばかりで、孤独で、自尊心が低下していた。ある日、大学の門の前で『心理学に興味ありませんか』と声をかけられた。

鈴本 そう来ましたか。

中村 新興宗教側からすれば、ターゲットとして完璧だったんでしょうね。彼らの集まりに行ったら、皆さん、本当に温かかった。私の話を聞いてくれて、私の研究を応援してくれて、私の存在価値を肯定してくれた。

セニョ ああ。

中村 教義は、最初はあまり前面に出てこなかった。三回目あたりから、徐々に出てくる。私は『これは社会心理学の研究になるな』と思って、観察を続けた。三か月後、ある合宿に誘われた。そこで、教祖の本を読まされ、瞑想を強いられ、寄付の話が出てきた。

鈴本 そこで気づいた。

中村 気づいてはいたんです、ずっと。理論的には。でも、私は、その三か月で、本当に彼らが好きになっていた。彼らから離れることは、本当に辛かった。

セニョ 三か月で、好きになってしまった。

中村 そう。これが、社会的アイデンティティの力です。私は理論を学んでいて、彼らがやっていることがマインドコントロールの典型例だと、知識としては分かっていた。それでも、感情としては、抜け出すのに半年かかりました。

鈴本 心理学者になっても、なお、人間なんですね。

中村 そう、それが私の研究の出発点です。理論を知っているだけでは、人は守れない。知識と感情は、別の系統で動いているからです。

第七章 体験談――『私は変わった』という最強の証拠

『感じた』ことは、否定できない

鈴本 次の話題に行きたいんですけど、現場で本当に手強いのが、体験談なんです。

中村 ああ、これは強力ですね。

鈴本 『このサプリで体調が良くなった』『このセミナーで人生が変わった』『この水で病気が治った』『この情報で目が覚めた』。どれも、論理では崩せないんです。

セニョ 本人が『そう感じた』ことは、否定できない。

鈴本 そうなんです。だから、悪質な業者ほど、体験談を売る。エビデンスではなく、体験談を。

中村 心理学的には、これは利用可能性ヒューリスティックという認知バイアスと結びついています。生々しい個別エピソードは、抽象的な統計よりも、はるかに記憶に残り、判断に影響する。

セニョ 『十万人中、効果があったのは三人でした』という統計より、『私はこのサプリで助かりました』という一人の話のほうが、強い。

中村 圧倒的に強いです。人間の脳は、物語を処理するように進化してきたからです。

プラセボ、選択バイアス、自然治癒、平均回帰

中村 ただ、体験談の問題は、それを否定することではない。体験談を、適切な文脈に置くことです。

鈴本 とおっしゃると。

中村 誰かが『このサプリで治った』と言ったとき、考えるべき可能性は最低五つあります。

中村 第一、プラセボ効果。期待することで本当に症状が改善することがある。これは脳の機能で、実際に存在します。

中村 第二、自然治癒。多くの不調は、何もしなくても時間とともに良くなる。サプリを飲んだ時期と、自然に良くなった時期が偶然一致した可能性。

中村 第三、平均回帰。体調が悪いときに人はサプリを飲み始める。体調が悪いときの後は、確率的に体調が良くなる方向に動きやすい。サプリのおかげではなく、統計的な必然。

中村 第四、選択的記憶。サプリを飲んでも改善しなかった日のことは、忘れる。改善した日のことだけ、記憶に残る。

中村 第五、選択バイアス。効果のなかった人は『私はこのサプリで治りませんでした』とは言わない。SNSや広告に登場するのは、効果があったと感じた人だけ。だから、世の中の体験談は、すでに偏ったサンプルになっている。

セニョ うわあ、五つもありますね。

鈴本 これ、サプリだけじゃなくて、オーディオでも、投資商材でも、自己啓発でも、宗教でも、全部当てはまりますね。

中村 そう、体験談を証拠として使うとき、この五つを排除した実験が必要です。それが、二重盲検法であり、対照群を置いた介入研究です。

セニョ そういう実験をやってる商品って、どれくらいあるんですか。

中村 市販されているサプリのほとんどは、やっていません。やっていたら、その結果は薬として承認されるレベルか、しないレベル、のどちらかです。

『私の母は治りました』を、どう聞くか

鈴本 私が一番悩むのが、『私の母が、このがん治療で助かりました』という体験談なんです。

中村 難しいですね。

鈴本 本当に助かったかもしれない。お母様の状態、治療の組み合わせ、自然な経過、いろいろな要因がある。それを、外から『気のせいかもしれませんね』と言うのは、残酷だし、傲慢でもある。

セニョ でも、その体験談を、別の人に勧める材料に使うのは、危ない。

鈴本 そう、それです。個人の体験を尊重することと、それを治療法の証拠として一般化することは、別の問題なんです。

中村 ここが、消費者教育で最も難しいところです。『あなたの感覚は本物だ。しかし、それは他人への証拠にはならない』ということを、傷つけずに伝える。

セニョ 私の国で、おばあちゃんが、よく言ってました。『他人の薬は、毒になることがある』って。みんな違うから、私の経験は、私のもの。

鈴本 セニョさんのおばあちゃん、もう、ぜったい本書きましょう。

『芸能人格付けチェック』も体験談ビジネス?

セニョ ちょっと前の話題に戻っていいですか。あのテレビ番組、あれも、ある意味で体験談ビジネスですよね。

中村 というと。

セニョ 番組全体は、『芸能人でも当てるのは難しい』ことを示している。これは、視聴者に『一流とそうでないものは、見分けがつきにくい』ことを教えているはずなんです。

鈴本 そうですね。本来は、ブラインドテストの教育番組として機能できる。

セニョ でも、番組の作りは、当てた人を『一流』と讃え、外した人を『二流以下』と扱う。これによって、視聴者は、『当てる能力は実在する』『一流の人は本当に違いが分かる』という結論を持って帰る。

中村 本当はランダムに近いのに、当たった人だけがクローズアップされ、『この人は本物だ』という物語になる。

セニョ それで、視聴者は、自分も頑張れば『分かる側』になれる、と思う。そして、ワインや、肉や、楽器を、買いに行く。

鈴本 セニョさん、その分析、エコノミスト誌に寄稿できますよ。

中村 番組の作り手は、たぶん、そこまで悪意はないんです。エンターテイメントとして、見やすく、盛り上がるように作っている。でも、結果として、これは、価格と価値の混同を、繰り返し教育する装置になっている。

セニョ 悪意なく、社会を歪める仕組み。これも、いい人がいい人をハマらせる構造ですね。

第八章 ダニング=クルーガー再考――『隣接領域の罠』

無知の問題ではなく、半端な知識の問題

中村 ここで、よく誤用される心理学概念の話をさせてください。ダニング=クルーガー効果です。

鈴本 ああ、ネットでよく見ます。『無能な人ほど自分を有能だと思う』というやつですね。

中村 そう、その紹介で広まっていますが、これはちょっと単純化されすぎている。元の論文は、能力の低い人は、自分の誤りを認識するためのメタ認知能力も不足しがちだ、という議論です。

セニョ ちがいが、わからないです。

中村 つまり、能力が低いと、自分が間違っていることに気づきにくい、という話です。『無能だから自信過剰』ではなく、『無能なせいで、自分の無能に気づけない』。

鈴本 ニュアンスが違いますね。

中村 そう。そして、本書のテーマで重要なのは、もう一つ別の現象です。これは、ダニング=クルーガーそのものではないんですが、近い問題です。

セニョ なんですか。

中村 『隣接領域の罠』。ある分野の専門家が、隣の分野で、半端な専門知識を持っていることで、かえって陥りやすい誤りです。

電気エンジニアが、オーディオを語るとき

中村 例を挙げましょう。電気回路に詳しいエンジニアがいる。仕事では立派な技術者です。

鈴本 ええ。

中村 彼が、高額USBケーブルの音質について語り始める。グラウンドノイズが、ジッターが、シールドの効果が、絶縁体の誘電率が、と。

セニョ 全部、本当にある概念ですよね。

中村 そう、概念は本物です。ただし、それらの効果が、人間の聴覚で識別可能なレベルにまで影響するか、という別の問いには、彼は答えていない。

鈴本 概念があることと、効果が人間に分かるレベルかどうかは、別の話なんですね。

中村 そう。電気回路の知識は本物。だから、彼の議論はもっともらしく聞こえる。素人は『この人、専門家だから』と信じる。本人も、自分が一流の電気エンジニアだから、自分の主張は正しいと信じている。

セニョ でも、聴覚の話は、彼の専門ではない。

中村 そう。聴覚心理学は、また別の分野です。彼が必要としているのは、ブラインドテストの設計と、心理音響学の知識です。電気回路の知識ではない。

鈴本 私、これ、医療分野でもよく見ます。物理学者が代替医療を擁護する、というケース。

中村 物理学の知識で、生体の複雑な反応を語ろうとする。これは、専門的に見ると、分野の境界を越えた誤用です。しかし、物理学者は『私は科学者だ』という自負があるから、自分が間違える可能性を、検討しない。

半可通こそ、最も危険

鈴本 私、現場で痛感するんですけど、まったくの素人より、ちょっと知ってる人のほうが、危ないんですよ。

中村 ええ、そうです。

鈴本 経済をちょっと知っている人ほど、怪しい投資商材に、マクロ経済の文脈で説明を与えてしまう。

鈴本 医学をちょっと知っている人ほど、代替医療に合理的に見える理屈をつけてしまう。

鈴本 電気をちょっと知っている人ほど、高額オーディオに、技術的な根拠を見出してしまう。

セニョ ちょっと知ってると、ハマっちゃう。

中村 そう。なぜなら、彼らは、自分の知識を使って、信じたい結論を支える理屈を、より上手に作れるからです。第二章で話した動機づけられた推論が、知識が多い人ほど、強力に作動する。

鈴本 本当に何も知らない人は、『分からないから、専門家に聞く』と言える。

中村 そう、それが正解です。完全な無知は、ある種の謙虚さを生む。中途半端な知識は、過剰な自信を生む。

セニョ じゃあ、私みたいに、何も知らないのが一番いいんですね。

中村 セニョさんは、何も知らないんじゃなくて、知っていることと知らないことの区別が、すごく明確なんですよ。それが、本当の知性です。

鈴本 中村先生、これは決定的に重要なポイントですね。賢さの定義を、私たちは間違えてきた。

『私は専門家だ』と『私はその分野の専門家だ』

中村 もう一つ重要な区別があります。『私は専門家だ』と『私はその分野の専門家だ』は、別物だ、ということです。

鈴本 ああ。

中村 ノーベル賞受賞者が、自分の専門外で奇妙な主張をする例は、歴史上、いくつもあります。物理学者が政治を語り、生物学者が哲学を語り、化学者が代替医療を支持する。

セニョ ノーベル賞でも、ですか。

中村 ええ。これをノーベル病と呼ぶ研究者もいるくらい。理由は単純で、彼らは自分の分野で『自分は天才だ』と認定された人々だから、他の分野でも自分の直感が正しいと信じやすいんです。

鈴本 おそろしい話ですね。

中村 私たちが他人の権威を判断するときも、自分自身の知識を評価するときも、『この権威/知識は、まさにこの問題に関するものか』を確認する必要がある。

セニョ それを聞くと、私みたいに、何の専門家でもないほうが、まだいいかもしれない。

鈴本 セニョさん、繰り返しになりますけど、それは本当に強い防御です。

第九章 日本という特殊事例――『立派すぎて動けない』社会

セニョさんが見た日本の金融

鈴本 ここでセニョさんに、ちょっと突っ込んだ話を聞きたいんですけど。日本に十二年住んで、特に日本の金融や経済について、どう見えますか。

セニョ 私、専門家じゃないので、感覚的な話になるんですけど、いいですか。

中村 むしろ、それがいい。

セニョ 日本の金融システムは、本当に立派なんですよ。コンビニのATMで、夜中でも、現金が使えて、ATMが壊れていることなんて、ほとんどない。銀行振込が翌営業日に確実に届く。クレジットカードの不正利用検出も、かなり優秀。郵便為替もある、現金書留もある、振替もある。これは、私の国では、ありえない水準です。

鈴本 確かに、海外と比べると、すごい水準ですね。

セニョ ただ、私、これがある種の問題を生んでいる気がするんです。

中村 というと。

セニョ 立派すぎて、動けないんですよ。

鈴本 おお、面白い。

セニョ 日本では、ステーブルコインも、スマートコントラクトも、新しい決済サービスも、なかなか普及しない。私、最初は『日本人は新しいものが嫌いなのかな』と思ったんですけど、違うんですね。既存のシステムが、あまりに快適だから、変える理由がないんですよ。

中村 なるほど。

セニョ 私の国では、銀行口座を持てない人がたくさんいた。送金も遅くて高い。だから、暗号資産が爆発的に普及した。代替手段としての需要が強かったから。日本には、その需要がない。だから、新しい技術を、わざわざ採用するインセンティブがない。

鈴本 立派なインフラが、革新の障害になっている。

セニョ そう。私、これを『快適な囚人』と呼んでます。

中村 セニョさん、また論文に使える言葉を。

『コンフォートゾーンの罠』としての日本社会

中村 セニョさんの話は、心理学的にも非常に示唆的です。コンフォートゾーンの罠、というのは、個人だけでなく、社会レベルでも起きる。

鈴本 個人で言えば、現在の状態がそこそこ快適だから、不確実な変化を選ばない、ということですね。

中村 そう。これは合理的な選択でもあります。確実な現状と、不確実な未来のどちらを選ぶか、という判断ですから。問題は、長期的には、変化しないこと自体がリスクになる、ということ。

セニョ 私の国は、変化しすぎて、経済が崩壊した。日本は、変化しなさすぎて、徐々に縮んでいる。逆方向の問題ですね。

鈴本 本書のテーマとも、つながりますね。サンクコスト効果は、個人の問題でもあるし、社会の問題でもある。立派なシステムを作ったからこそ、それを捨てられない。

中村 そう、組織の意思決定でも、これは古典的な問題です。優秀な人々が作った、よく機能しているシステムは、その優秀さゆえに、批判が許されない雰囲気を生む。

『善良な空気』が新しい罠を作る

鈴本 日本って、特殊だと思うんですよ。詐欺事件は多いのに、人々は基本的に親切で、嘘をつかない人が多い。だからこそ、騙されやすい。

中村 ええ、社会心理学的にも、これは観察されています。一般的信頼の高い社会は、騙されやすい。なぜなら、人々はデフォルトで相手を信じるから。

セニョ 私が日本に来て驚いたのは、コンビニのレジで前の人が小銭を落としても、店員さんが普通に拾って渡してくれる、ということでした。私の国だと、店員さんが取っちゃいます。

鈴本 あ、そういう話なんですね。

セニョ そう。日本は、信頼が貯金されている社会なんですよ。誰もが、誰もが正直であることを前提に行動できる。これは、すごい財産です。

中村 ただ、その信頼を悪用する詐欺師は、強力な力を持つことになる。

セニョ そう。だから、日本人は、信頼を疑うことを学んでいない。私の国では、子どもの頃から『見知らぬ人を信じるな』と教える。日本では、教えない。

鈴本 高齢者が振り込め詐欺に遭うのも、この構造ですよね。家族から電話が来たら、家族だと信じる。だからこそ、振り込んでしまう。

中村 信頼の高い社会の負の側面です。これは構造的な問題で、個人を責められるものではない。

『静かな衰退』と新しい救世主

鈴本 話が少し大きくなりますが、現在の日本社会は、徐々に衰退している、と感じている人が多いですよね。経済成長は鈍く、人口は減り、賃金は上がらない。

中村 ええ。

鈴本 こういう時期に、人々は単純な救世主を求めるんですよ。『この投資法で、日本人だけがまだ知らない富を手に入れよう』『この健康法で、医療費を払わずに健康になれる』『この方法論で、衰退する会社を一気に変えよう』。

セニョ 怪しい救世主が、増える時期ですね。

中村 そう。不安と不満は、陰謀論や疑似科学や悪質な商法の、最良の養分です。私が現代日本社会を心配しているのは、まさにこの点で、人々の不安が拡散している状態は、認知的罠が最も作動しやすい環境です。

鈴本 だからこそ、私たち消費生活アドバイザーの仕事も、年々忙しくなる。

セニョ 私は、貧しい国で、見ました。経済が崩れると、まず、変な宗教が増えるんですよ。次に、変な投資の話。次に、変な健康食品。最後に、変な政治家。

鈴本 順番まで一緒なんですか。

セニョ 順番までは知りませんけど、感覚的には、そんな感じです。

中村 セニョさんの直感は、社会学的にもかなり妥当です。経済的・社会的不安が高まると、人々はあらゆる『答え』に飛びつく。

第十章 罠から抜ける――そして、罠を作らない

自分の中の罠を、どう見つけるか

鈴本 最終章は、実践編にしたいんです。読者の方が、自分の中の罠に気づくために、どうすればいいか。

中村 難しい問いですね。なぜなら、罠の中にいる人は、自分が罠の中にいることに気づきにくいから。

セニョ じゃあ、外にいるうちに、地図を見ておくしかないですね。

鈴本 私が現場で言ってきたチェックリスト、いくつか挙げてみますね。

鈴本 一つ目、『あなたの集団は、批判を歓迎するか』。健全な集団は、内部からの批判を、丁寧に検討します。罠の集団は、批判を裏切りとして扱う。

鈴本 二つ目、『離脱コストは、いくらか』。やめると失うものが大きすぎる構造は、要注意。健全な趣味や活動は、いつでも、傷つかずに離れられるはず。

鈴本 三つ目、『その結論を、別の立場の専門家は支持しているか』。一つの集団内でしか肯定されない理論は、要注意。

鈴本 四つ目、『その商品の効果は、ブラインドテストで検証されているか』。検証されていない、または、検証を拒んでいる場合、要注意。

鈴本 五つ目、『あなたは、批判者を「敵」と感じているか』。事実への批判を、自分への攻撃と感じるとき、あなたはすでに、信念とアイデンティティが融合している。

中村 六つ目、『あなたは「分かる側」「目覚めた側」「正しい側」にいる、という感覚を持っているか』。これは、社会的アイデンティティが信念と融合している強い兆候です。

中村 七つ目、『反証されたとき、あなたは喜ぶか、それとも防御するか』。真理を求める人は、自分が間違っていたと気づくとき、喜びます。間違いを発見したのだから。アイデンティティを守る人は、防御する。

中村 八つ目、『あなたが信じていることは、五年前と、十年前と、二十年前で、変わったか』。一度も信念が変わっていない人は、たぶん、考え続けてはいない。

セニョ 九つ目、これは私から、お願いしていいですか。

鈴本 もちろん。

セニョ 『その話を、亡くなったおばあちゃんに、堂々と話せるか』。

中村 ああ。

セニョ 私、迷ったとき、いつも、おばあちゃんならどう言うかな、と考えるんです。おばあちゃんは小学校しか出てないですけど、騙された人を六十人見てきた人だから、おばあちゃんが『これは怪しい』と言いそうな話は、たいてい、怪しいんですよ。

鈴本 セニョさん、それはすごく実践的な知恵ですね。

罠にハマっている人を、どう助けるか

鈴本 もう一つ、大事な問いがあるんです。家族や友人が、罠にハマっているとき、どうすればいいか。

中村 これは、本当に難しい。

鈴本 私が現場で学んだのは、論破はほぼ無効、ということです。

中村 ええ、論破は、相手の集団アイデンティティへの攻撃として処理されますから。

鈴本 私が試しているのは、いくつかあります。

鈴本 一つ目、関係を切らない。罠の集団は、外部からの孤立を進めようとする。だから、家族との関係が残っているだけで、それは抵抗の足場になる。

鈴本 二つ目、別の居場所を作る。共通の趣味、旅行、孫との時間、ペット。罠の世界以外に、その人を必要としている世界があることを、思い出してもらう。

鈴本 三つ目、論破ではなく、質問する。『お父さん、もし、その情報源が間違っていたとしたら、どうやって気づける?』。答えがない場合、その情報源は、検証不能な情報源だ、ということです。

中村 それは、対話の技法として優れていますね。

鈴本 四つ目、長期戦に備える。私が見てきた中で、すぐに目が覚めた人は、ほぼいません。何年もかかります。だから、家族の側も、自分を消耗させない工夫が必要です。

セニョ 私、思うんですけど、罠から抜けるきっかけって、たいてい、論理じゃないですよね。

中村 ええ、たいてい、人生の何かが変わるんです。死、病気、退職、引越し、子どもの独立。状況が変わったとき、信念を支えていた構造が崩れる。

鈴本 だから、家族にできるのは、その日が来るまで、関係を保ち続けることなんです。

最後に――善良さは、罠なのか

鈴本 最後に、皆さんに聞きたいんですが、結局、善良で知的な人ほど、罠にハマりやすい、という結論で、いいんでしょうか。

中村 私は、こう言いたい。善良さや知性は、罠の原因ではない。罠の原因は、それらが、何に奉仕しているか、です。

鈴本 ああ。

中村 知性が、事実に奉仕するとき、知性は、最大の防御になる。知性が、自分のプライドや所属集団や過去の投資に奉仕するとき、知性は、最大の罠になる。

セニョ 知性は、両方向に切れる刃物、みたいなものですか。

中村 セニョさん、まさにそうです。

鈴本 善良さも、似てますね。善良さが、誠実に事実を見ることに使われると、力になる。善良さが、誰かを傷つけないために事実から目をそらすことに使われると、罠になる。

中村 そう、善良さや知性そのものは、中立です。それらが、何に使われているか。それが、すべてです。

セニョ じゃあ、結論は、何になりますか。

中村 私の結論は、こうです。

 人間は、事実を知りたい生き物であると同時に、自分の信念、自尊心、所属集団、過去の投資、不安の処理を守りたい生き物でもある。

 善良で知的な人が罠に落ちるのは、知性が足りないからではない。知性が、自分を守るために働きすぎるからである。

鈴本 私は、こう付け加えます。

 被害に遭った方を、決して、愚かだと言わないでください。

 彼らは、人間として、ごく自然な仕組みで、ハマっただけです。

 その自然な仕組みを知ることが、私たちが、自分自身と、大切な人を守るための、最大の力になります。

セニョ 私は、これを言いたいです。

 お金がなくて、欲望が少なくて、SNSをあまり使わなくて、おばあちゃんの教えを覚えている。

 それが、私の最大の財産でした。

 皆さんも、自分の中の、こういう小さな財産を、大切にしてください。

 たぶん、皆さんが思っているより、ずっと、それは、価値あるものです。

鈴本 セニョさん、最後の最後で、また名言を残しましたね。

セニョ おばあちゃんが、たぶん、天国で喜んでます。

中村 編集者さん、これで、対談は終わりにしましょう。私たち、もう十二時間しゃべってます。

(一同、笑う。録音は、ここで終了している。)

あとがき ――読者へ

 ここまで読んでくださって、ありがとうございました。

 この本の三人は、それぞれ異なる場所から、人間の心の罠について語りました。鈴本さんは現場の二十年から、中村先生は心理学の理論と自身の経験から、セニョさんはアウトサイダーの目と、おばあちゃんの口伝から。

 彼らの話に、共通していたことが、一つだけあります。

 それは、『罠にハマる人を、決して見下さない』ということです。

 罠にハマることは、愚かさではない。それは、人間という生き物が持っている、ごく自然な仕組みの帰結である。事実を知りたい欲求、所属したい欲求、自尊心を保ちたい欲求、不安を処理したい欲求、過去の自分を否定したくない欲求。これらは、すべて、私たちを生き延びさせてきた、進化の贈り物です。

 ただ、それらの贈り物は、現代の複雑な消費社会の中で、ときに、私たち自身を縛る鎖になる。

 この本は、そうした鎖の形を、できるだけ親しみやすく、できるだけ正直に、描こうとしました。

 最後に、もう一度、本書のチェックリストを置いておきます。何かに迷ったとき、何かを強く信じている自分に気づいたとき、ときどき、自分に向けてみてください。

 一、その集団は、批判を歓迎するか。

 二、いま離脱したら、いくら失うか。

 三、別の立場の専門家も、それを支持するか。

 四、その効果は、ブラインドテストで検証されているか。

 五、批判者を、敵と感じていないか。

 六、自分を『分かる側』『正しい側』だと感じていないか。

 七、反証されたとき、自分は喜ぶか、防御するか。

 八、自分の信念は、十年前と変わったか。

 九、亡くなったおばあちゃんに、堂々と話せるか。

 九つ目は、もちろん、セニョさんから贈られた問いです。あなたのおばあちゃんが、あなたを、今日も、見守ってくださいますように。

 二〇二六年 春

――

Comment(0)