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【Book】『パンドラの種 農耕文明が開け放った災いの箱』 - 1万年のビッグデータ

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パンドラの種 農耕文明が開け放った災いの箱

パンドラの種 農耕文明が開け放った災いの箱

  • 作者: スペンサー・ウェルズ、斉藤 隆央
  • 出版社: 化学同人
  • 発売日: 2012/1/26

今、世のビジネスマンが一番多く見聞きするキーワードは「ビッグデータ」というものではないだろうか。巨大なデータを収集・分析してパターンやルールを見つけ出す。その上で、今を描き出したり、異変を察知したり、近未来を予測するために活用されるものだ。世界中で生成されるデータの増加とともに、ビッグデータへの注目度は一気に上がってきた。

本書で描かれている内容も、ある意味においてはビッグデータの活用ということになるのかもしれない。とはいっても、ネットの普及以降に集められた20年分くらいのデータ量のものではない。我々人類の来し方、行く末を語るためには、1万年くらいのスパンによる情報が必要であったのだ。このとてつもなく長い歴史をデータマイニングした結果こそが、本書の成果になっていると言える。

約1万年ほど前、その先の何世代も後にまで影響をもたらすような種が蒔かれた。ヒトは定住を始め、農耕を編み出したのである。それ以前の狩猟採集民は食料の供給源を見つけることをあてにしていたが、農耕民はそれ自体を作り出したのだ。

農耕の発明は、人々に安定した食料を供給し、多彩な活動をする余裕を与えて文明を発達させる契機になったと言われている。しかし実際には、ポジティブな影響だけではなく、ネガティブな影響もあったのだ。それは現代社会の病弊にも、つながっているのだという。本書のタイトルにパンドラという単語がついている所以でもある。

著者は遺伝学者であり、人類学者でもある人物。この二つの専門性を活かして、ビッグデータを集める。中でも特筆すべきなのは遺伝学の方だ。2000年代に入ってヒトゲノムプロジェクトが完了し、それが大きな技術的進歩をもたらしているからである。

ほんの数10年前まで、遺伝学の研究プロジェクトにおける制約因子は、仮説を検証するための十分なデータをそろえるという点にあったという。ところが今や、データは消火ホースからの放水のようにあふれており、難しいのは、それを解釈したうえで統計的なパターンを説明するための、さまざまな仮説を構築する作業となっているそうだ。

しかしそのような作業は、我々のゲノムがかつて起こった出来事によってどのように作り上げられたのかを知る手立てを提供してくれる。現在生きている人のDNAに見られる手がかりを吟味することによって、はるか昔の世代に起きた出来事の証拠を見つけることができるのだ。

この人間の体内に埋め込まれたとてつもないビッグデータの解析が、本書に書かれている内容のリアリティをぐっと高めており、実に効果的に機能している。例えば進化論の根幹をなす自然選択説(厳しい自然環境が、生物に無目的に起きる変異を選別し、進化に方向性を与えるという説)。この証拠となるようなものも、DNAレベルで見つけることが可能になっているという。

シカゴ大学のプリチャード教授らの分析によって、ゲノムのなかに強い自然選択が起きた領域が数百個見つかり、それらが我々の染色体全体に散らばっていることが明らかになったのは2006年のことだ。 驚くのは、その選択が人類6万年の歴史の中においては、かなり最近に起きていたということ。どれも、過去1万年以内の出来事であったのだ。過去1万年、人類にしてたった350世代ほどの間に何百もの自然選択が起きた形跡が発見されたことは、われわれの種がその期間に非常に強い選択圧を受けた事実を示唆してくれている。

この1万年前という時期が重要なのは、人類が農耕を始めた時期と合致しているからである。われわれは動植物に手を加え、農耕社会を発展させたが、遺伝情報から判断するに、農耕社会がわれわれに手を加えもした可能性があるのだ。

さらに驚くのは、自然選択の証拠を示している遺伝子の多くと、高血圧や糖尿病といったヒトの複合的な病気にかかわる遺伝子とのあいだに、重なりが見られるということである。

今、現代人の大きな脅威となっている慢性病の一つである糖尿病には、倹約遺伝子型というものが大きく関与しているという説がある。この摂取カロリーの少ない条件でも生理機能を維持するための能力は、狩猟採集民には高い適応性を与えたと思われるのだが、現代の高カロリーの食生活には不適応となりえたのだ。

結局、現代人を襲っているほぼすべての主要疾患 、細菌、ウィルスや寄生虫によるものであれ、非感染性のものであれ、われわれの主体と、農耕の誕生以来作り上げてきた世界とのズレに根ざしているというのが著者の主張だ。マラリア、インフルエンザ、エイズ、糖尿病、どれもが現代社会の世界的な厄災となりうるのは、人口密度が高まり、家畜の数も増し、移動の距離や頻度が高くなった結果にほかならないからだ。

一方でこの問題は、体の病のみに限定した話ではなく、心の病にも多大な影響を及ぼしているという。農耕の変化がもたらした最初の結果は、食料の増加によって人が増えたということである。これにより第二の結果でもある共同体の誕生がもたらされたことに要因があるのだ。

ダンバー数と呼ばれることでも有名な150人という集団のサイズは、狩猟採集民の集団の平均的なサイズでもあることはよく知られている。人口密度が高くて騒がしい農耕社会と、人口密度の低い狩猟採集社会、この二つの社会の間に見られるこ心理的な不一致が、多くの人の感じる不安の一因であることはほぼ間違いないとされているのだ。この他にも、現代の暮らしにはあれこれ「騒がしい」要素があり、社会の背景にあふれるそうした刺激が、大半の社会で精神疾患が増えている一因とも言えそうだ。

このように、生まれてまだ1万年ほどしか経っていない新しい文化に、人類は体の面でも心の面でも適応しようとしている途中段階にあるということなのだ。人類の進化はいわゆる「突然変異」という言葉の持つイメージとは違い、環境の変化に比べるとずい分とゆっくりしたスピードで進行しているということが明かされたのである。

環境と生体との間に見られる、この明白なギャップ。それなら人類は、狩猟採集民へと戻るべきなのだろうか?しかし、それも、ほぼ不可能な話だろう。我々はもはや狩猟採集民として必要なスキルを失ってしまったし、それでは文明の良いところも切り捨ててしまうことになるからだ。

本書において、解決策がいくつか呈示されている。その一つが遺伝子テクノロジーである。高血圧や糖尿病など一般的な病気に影響する遺伝因子については、環境が最大の役割を果たしている可能性があるが、遺伝因子も確かに存在する。今後ゲノミクスという分野の発達により生涯におけるリスクが見積もられ、遺伝的な危険因子を考慮に入れたライフスタイルが「処方される」ことも考えられるのだ。しかし、この未知の領域にはヒトとして大切なものを失わないように留意しなければならない課題が山積みなのも事実である。

もう一つが、我々の新しい倫理観を養うというものだ。狩猟採集民として従ってきた「自然の倫理」、農耕時代に培われた「共同体の倫理」、ここに地球という上限を意識した新しい倫理観を生み出すことで問題を回避する道筋が見えてくるのだ。著者は、様々な言葉を引用し、我々は「多くを望まない」ことを学べるのだと説く。

言いかえれば、これは「足るを知る」ということでもある。ダボス会議における渡辺 謙のスピーチでも触れられて共感を呼んだ格言であるが、もとは老子の言葉だ。つまり本書で為されていることは、1万年間にわたるビッグデータを解析し、2500年前の格言を説明してみせたということなのである。

世の中は放っておけば、どんどんリアルタイムを指向する。クラウドコンピューティングしかり、ソーシャルメディアしかり。リアルタイムにデータは吸い上げられ、オートマチックに判断は下される。しかし意図的に逆の方向を突き詰めてみると、見えてくるのは太古のロマンだ。時間のスケールを変えてモノを見るということの、なんと面白いことか。
(※HONZ 2/1用エントリー
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一万年の進化爆発 文明が進化を加速した

一万年の進化爆発 文明が進化を加速した

  • 作者: グレゴリー・コクラン、ヘンリー・ハーペンディング、古川奈々子
  • 出版社: 日経BP社
  • 発売日: 2010/5/27

言わずと知れた名著。巻末の訳者あとがきでも触れられていたが、併せて読むと理解が進む本。『パンドラの種』が農耕のネガティブな側面を描いているのに対し、『一万年の進化爆発』はポジティブなアプローチで人類史を解き明かす。

文明は農業で動く

文明は農業で動く

  • 作者: 吉田太郎
  • 出版社: 築地書館
  • 発売日: 2011/4/9

歴史的に石油遮断を経験した主な国は、三つある。ソ連の崩壊で輸入石油が途絶し、国民の餓死にまで及んだ北朝鮮。ほかならぬ太平洋戦争時の大日本帝国。そしてカリブ海に浮かぶキューバである。この中でキューバだけが、社会的連帯と伝統知識の保全により、危機を乗り切ることができた。そこで今、世界の目は辺境と古代の農法に注がれはじめているという。我々はアステカ、インカ、スリランカと世界各地の伝統農法から何を学ぶべきなのか。

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