【書評】『これが見納め 絶滅危惧の生きものたち、最後の光景』:太古の魂
言うまでもなく、絶滅は遥かな昔から起こっていることである。かつて地球上で栄華を誇った恐竜たちは今や見る影もないし、ネアンデルタール人とて同様である。人類が登場するずっと前から、動植物は現れては消えてきたのだ。しかし、問題なのは、その絶滅のスピードにある。先史時代以降に起こった絶滅の過半数は、この三百年に起こっているという。そしてこの三百年に起こった絶滅の過半数は、この五十年間に。そしてこの五十年間に起こった絶滅の過半数は、この十年間に起こっているのだ。
本書は、世界一珍しくて、世界一絶滅の危機に瀕している動物たちを、足掛け一年近くかけて地球の果てまで見に行ったネイチャー・ルポである。著者は、『銀河ヒッチハイク』などでおなじみのSF作家ダグラス・アダムス。彼は、動物学のどの字も知らない素人として、なにが起きてもいちいち度肝をぬかされるというミッションを背負わされて、生物学者のマーク・カーワディンとともに旅に出た。そのリアクション芸人ぶりと卓越した観察眼は見事なまでに両立しており、その面白さは序文でリチャード・ドーキンスが太鼓判を押しているほどだ。
絶滅の危機に瀕した動物の生き残りを保証する道は観光であるというのが、定説となりつつあるそうだ。慎重に管理・監視するためにというのが、その名目だ。しかし、その敵は自然の摂理ではない。動物たちが生息する森を破壊する者たちや、密漁者たち、つまり人間こそが彼らの敵となっているのである。人間が捕食者でもあり、保護者でもあるとは、なんという皮肉な光景であろうか。
もちろん、観光というのはベストな選択肢ではない。観光客のために、慣らしという行為が必要になるのだ。野生の群れに接触し、何カ月も、ときには何年も、毎日群れのところへ出かけて行って、人間がそばにいても気にしないように訓練をする。このようにして動物園のような環境におかれてしまった動物は、もはや野生の動物とはかけ離れたものになってしまう。
しかし、本書で描かれている動物たちは、絶滅の危機に瀕しながらも野生の状態そのものである。そしてその白眉は、著者と動物との出会いの瞬間に凝縮される。
◆絶滅の危機に瀕している動物たちとの出会いの瞬間の描写
・アイアイ(マダガスカル島)
頭上数フィートの枝を伝って、ゆっくり移動しながら、降りしきる雨をすかしてこちらを見おろしていた。いったいこれはなんだろうと言いたげな、いわば静かな当惑の表情を浮かべて。・コモドオオトカゲ(インドネシア・コモド島)
オオトカゲは、片方の目で関心なさげにわたしたちを眺めていた。こちらを向いているその目は、丸くて濃い茶色をしていた。こちらを見ている目を見ていると、なぜかひどく不安をかきたてられるものだ。こちらを見ている目がこちらの目とほとんど同じ大きさで、そのこちらを見ている目の持主がトカゲだったらなおさらだ。・マウンテンゴリラ(ザイール)
山野でこんな生きものに初めて出くわしたときは、頭の中が高速で空転してまるで動けなくなってしまう。たしかに、こんな生きものはほかにいない。強烈な、めまいにも似たさまざまな感情が頭にのぼってくる。・カカポ(ニュージーランド)
まるで聖母子像だった。その鳥は声も立てず、身じろぎもしなかった。こわがっているようには見えなかったが、それを言うなら周囲でなにが起きているのか、どくに気づいているようにも見えなかった。大きくて黒い表情のない目は、どこかあらぬ方をじっと見ているようだった。
なんとも神々しい描写である。ここに到達するまでのコメディタッチの珍道中とは、見事なまでのコントラストを織りなしている。そして、この瞬間にこそ、動物たちを絶滅させてはならない最大の理由が潜んでいるように思えるのだ。
野生の動物と見つめ合うことにより、日頃は理性で隠されている太古の魂のようなものを呼び起こされ、めまいにも似た感情を覚えたという。それは、三億五千万年前に共通の祖先をもっていたもの同士にしかわからない、本能的なものなのである。そして、その時に著者が感じたのは、長い間の経験を経て、人類が培ってきた進化は、本当に進化だったのだろうかということだ。彼らが言語を獲得していないのではなくて、人類がそれを失っているのではないだろうかと。
人類は唯一の善悪を判断できる生物などではなく、あくまでも自然界における相対的なもの。それを教えてくれるのは、残り数少ない絶滅危惧に瀕した生きものたちなのである。だからこそ、著者の描く人間模様は、皮肉に満ち満ちた痛快なものになっているのだ。
これだけ魅力的な内容が詰まっていれば、本書が絶滅の危機に瀕する可能性は当分なさそうで、ひと安心である。なにせ、三億五千万年後の生物にも読ませたいくらいの名著なのだ。
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