【書評】『乾燥標本収蔵1号室』:表舞台と舞台裏
博物館の魅力は、収蔵しているものではなく、来館者に見えないところで働く人々によって決まるそうだ。また、その土地の博物館を見れば、そこの社会がわかるとも言われている。それなら、世界最大級と言われる大英自然史博物館の実像は、一体いかなるものであろうか?本書は、古生物学の世界的権威である著者が、30年間過ごした古巣の素顔と、その住人たちの姿を綴った、貴重なアーカイヴである。
◆本書の目次
第1章 舞台裏への入り口
第2章 「分類」との闘い
第3章 雄弁な化石たち
第4章 恵みの動物界
第5章 美しき植物劇場
第6章 小さなつわものども
第7章 眠れる原石
第8章 「ノアの方舟」の軌跡
第9章 変わりゆくミューズたちの館
大英自然史博物館には、古生物研究部、鉱物研究部、動物研究部、植物研究部、昆虫研究部という5つの研究部があるそうだ。そこで働く研究者たちと大学などで働く研究者には、決定的な違いがある。それは研究の全てが、分類という使命のためになされているということだ。分類によって作られたコレクションこそが、博物館の個性であり存在目的なのである。よって一般的に、博物館で公開されているスペースは全体の面積の半分にも満たず、残りの大半はコレクションの保管に充てられている。
展示室の裏側に広がる巨大迷路のような世界、そしてそこに生息する住人たち。その人間模様が前半のハイライトである。自分の「種」に一生を捧げる人たちの奇人変人ぶりは、群を抜く。クジラのプロは、クジラの耳垢でその年齢を瞬時に読み取り、アリの研究者は働きアリのように勤勉で、甲虫研究家の中には堅い殻に閉じこもり、日光を避ける人もいたそうである。
また、研究以外での変人エピソードも盛りだくさんである。ある植物研究部長は、エレベーターで女性と乗り合わせると、蔓植物がものに巻きつくように、下半身に手が伸びてきたそうだ。また、別の研究者からは死後に一束の検索カードが見つかり、その一枚一枚にベッドで征服した相手の名前が記され、恥毛が貼りつけられていたという。分類学者の本能(?)とは、恐ろしきものである。
一方で後半の興味の対象は、このような奇人オールスターズを、どのようにガバナンスして来たかという点にある。その統治構造が大きく変化するのは、サッチャーの時代。「ビジネス優先」主義へと舵を切った大英自然博物館は、財務的な見地も考慮し、テーマパーク的なものへと変貌を遂げる。しかし、大英自然史博物館への注目は、次第に薄れていってしまう。この裏側では、非生産的とレッテルを貼られた多くの研究者たちが、博物館を跡にしたという事実がある。
突き詰めて考えると、博物館や分類の役割は、一体何なのかというところに行きつく。それは「地球上のあらゆる生物種を知る」というところにある。Googleの使命と言われる「世界中の情報を整理する」にも近しい印象を受ける。しかし、加速度的に増える一方の検索情報に比べ、生物種の方は自然環境破壊により、絶滅の危機に頻しているものも多い。多様性の保持こそが、緊急性を孕むテーマであり、ここに合理性を持ちこむことは得策ではない。
「自然界における尊い生命の多様性を保持するためには、舞台裏の人間の多様性を確保する必要がある」というのが、著者からの隠れたメッセージであるだろう。軽妙な奇人トークの合間に、神妙なメッセージが織り込まれており、胸に迫る一冊である。
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