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失敗作はごみなのか 陶芸家はなぜ作品を割るのか

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ある有名な陶芸家が、自らの作品を割っている姿をテレビのドキュメンタリーで見たことがあります。
 
こういうとき、素人考えで、なんてもったいない。と思ってしまいます。
 
作品を割るのは、一般的に陶芸家の姿を表わす一つのシンボルのようでもあり、「己に厳しい」という精神の気高さを象徴するようでもあります。
 
真剣に創作しているからこそ、納得のいかない作品は、世に出したくないのでしょう。
 
創作の最終段階において、作品に集中し、精神が高揚し、極まっている。その瞬間に思い通りにいかない作品を割るというのは、不自然な行為と思いません。
 
精魂込めてつくった作品を、「ダメだ。違う。」と自分の体をムチ打つように割っていくその姿からは、「道を極めるのは厳しい」という無言の言葉が聞こえてくる。一人の修行僧のようにも感じられます。
 
 
私は、ある陶芸家の方とお話しする機会があったので、「以前から知りたかったのですが本当に作品を割られるのですか?」とおたずねしました。
 
「私は割りません。思ったとおりにできなくて個展に出せない、お売りできない、そんな作品は必ず出てくる。それは自分で持っている。花瓶に使ったり、食卓で使ったり、何かしら使える。それでも使い切れないのはしまってある。だから倉庫はそういう作品でいっぱいです。そういう作品でも次の作品につながるきっかけをつかめたりする。」
 
作品にはご縁というものがあります。
周囲の人はそう思ってなくても、本人がダメだと思えばそれはもう出せないのです。
 
陶芸家が、作品を割る激しさ。
割らないで問い続ける忍耐。
 
その創作に対する情熱は、どちらが強いということではない。
世に出さないと決める厳しさは同じなのだと思いました。
 
音楽の場合は、お客様の前で「今のは失敗ですからもう一度」はありません。本当に割ってしまいたい気持ちになることはたくさんあります。その日の夜は眠れなくなります。だから、割る気持ちは良くわかるのです。
 
しかし、失敗から感得し、経験を持ち続ける強さも自分の成長となる。
 
だから私は、どんなものでも、これは失敗作だから無駄だということはないと思います。
もし芸術家が自分の作品に対して、「こんなものはゴミだ!」と言ったとしても、そういわせるだけの深い意味が含まれていると感じます。
 
世に出すという覚悟を持って創作すれば、結果割っても割らなくても、そこから何をつかむことができるのだと信じています。
 

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