「著作権を弱めるべきと主張する人はまず自分の著作権を弱めるべきだ」は正当な主張か?
仮に「著作権の保護期間を創作から5年にすべきである」と主張する先生がいたとしましょう(あくまで仮の例、この主張の正当性については別論)。その人に対して「他人の権利を弱めようとするのならばまず自分がそうしてはどうか?発行から5年経った先生の著書をパブリックドメインにしては?」と要求するのは正当でしょうか?
このような要求は一見理にかなっているように見えますが、はずしていると考えます。著作権制度は保護と利用のバランスの上に成り立っています。この先生にとってみれば、他人の著作物を利用するためには従来通り著作者の死後50年(あるいは70年)経つまでは許諾が必要であるにもかかわらず、自分の著作権は5年で放棄することになります。もちろん、社会に対するアピールとして自身の著作権を放棄するのは勝手ですが、経済的合理性の観点からは(他人の)著作物の利用が従来通りなのに、(自分の著作物の)保護だけを弱めることに意味はありません。
逆に、他人の著作物も5年で自由に使えるようになるのであれば、その先生は喜んで自分の著作物を5年でPDにするでしょう(そうでなければ本当のダブスタです)。
要は、著作権の弱体化というのは一人だけで動いてもその人が損をするだけという点で典型的な「囚人のジレンマ」の構造です。「囚人のジレンマ」のシナリオにおいて、囚人Aが囚人Bに対して「このままでは互いに損だから黙秘しよう」と持ちかけた時に、囚人Bが「人に黙秘させようとするなら、隗より始めよでおまえがまず黙秘しろ」と言ってもしょうがありません。囚人Aだけが黙秘するシナリオは囚人Aにとって最悪になるからです。このような状態を避けるためには囚人Aも囚人Bも同時に黙秘することがインセンティブになるような新たなルールを設定するしかありません。
著作権制度の問題の種のひとつはこのような「囚人のジレンマ」的構造により、当事者が最適だと思う行動を取ると結局全体最適ができないことが多いという点にあります。これを解決するためには、基本ルールそのものを変えていくこと、つまり、長期的な展望で思考できる人による制度そのものの改革が必要ということです。