著作権は所有権ではない
なぜ、人の著作物を勝手にコピーするのはいけないのかという議論がされる時に、人の物を盗むのが悪いのは当然という理由付けがされることがあります。しかし、これはミスリーディングな論理です。傘を盗まれれば、盗まれた人は傘を使えなくなりますが、著作物をコピーされても元々の所有者はその著作物を使い続けられます。あえてオッサン用語を使うと「減るもんじゃない」ということです。
もちろん、「減るもんじゃない」からと言って、著作物をコピーし放題にしていては、クリエイターは適切な見返りを得られなくなり、世間全体で創作意欲がなくなってしまいまずいので、著作物を無断でコピー等してはいけないという制度を人工的に作ったのが著作権制度の意義とされています(いわゆる「インセンティブ論」という考え方。これに対して著作権は著作者の天賦の権利であるという「自然権論」という考え方もあります。これについてはまた別途。)
要は、「人の傘を勝手に持って行ってはいけない」という話と「人の著作物を勝手にコピーしてはいけない」は、結論は似てますが理由付けが異なります。
昔は著作権(および特許権等)を知的所有権と総称してました。これは誤訳とすら言え、所有権という言葉に引っ張られて「だから著作権は(物の所有権と同じように)絶対的排他権でなければならないのだ」という本末転倒なロジックが展開されるリスクについての指摘が識者によりなされていました(例:『マルチメディアと著作権』(中山信弘))。なお、今日では、知的所有権という言葉はもう使用されなくなっており、知的財産権という言葉が使用されるようになっています。それでも、「著作権=(物の)所有権と本質的に同じ」という前提で議論をする人が今でも多いように思えます。
ついでに言っておくと、Winny問題に関して、JASRACの中の人が「Winnyはピストルだ(ゆえに、それを作って配付した人は罰せらて当然)」という発言をしたのを覚えています。
これを聞いたときは、ベータマックス訴訟の時に映画会社側の人間が家庭用VCRを連続殺人鬼にたとえたという話を思い出してしまいました(今にしてみればお笑いですが)。どちらの場合も、著作権の侵害を(自然権の最たるものである)生存権の侵害にたとえてしまうのはいかがなものかと思います。
(日本国内で)ピストルを作って売れば明らかに犯罪ですし、Winnyを作って配付したことは(今の所は)犯罪とされています。しかし、ここでも結論は似てますが理由付けは異なります。
たとえを使うことでものごとが理解しやすくなることは多いですが、知的財産権はかなり特殊な権利なので、安易なたとえを使うことは本質を見誤らせることになりかねないと思います。