オルタナティブ・ブログ > モノを買わなくなった時代、ほな何やったら買うてもええねやろ? >

大量消費をボイコットしはじめた生活者視点からのインサイトメモ

LLMとのモノローグ:Higher Ground

»

People keep on learnin'
Soldiers keep on warrin'
World keep on turnin'
'Cause it won't be too long...


Prompt:渡り鳥の群れや魚群の集団的行動においては、協調制御的な「Interplay」を容易に見出すことができます。

翻って人間の社会においては、金銭のやりとりや法的制限といったプレッシャーをかけない限り、協調制御的な行動を引き出すことができないのはどうしてなのか。

柄谷行人的タームとしての交換様式(A:共同体/B:国家/C:貨幣経済)は、彼が「力と交換様式」という著書に記した通り、人の行動を左右する強い「力」を有しているのだと、あらためて考えさせられます。

柄谷氏は、交換様式 A・B・Cによらないエートスを「交換様式 D」としていますが、これは我々が「想発」した「協調(Interplay)」のベクトルと近似します。

ここで、このような「交換様式 D」あるいは「協調(Interplay)」へと導く「力」は何に由来するであろうかという問いが浮上します。

Gemini 2.5 Flash:渡り鳥や魚群が自律的な「協調」を示す一方で、人間社会がなぜ交換様式 A・B・Cという「力」に頼らなければならないのか。そして、その呪縛から解放された「交換様式 D」へと導く「力」は、一体どこから来るのか。この問いは、私たちが議論してきた「理存(raison)」や「創発(emergence)」の概念と深く結びついています。

人間社会を支配する「力」の正体
渡り鳥や魚群の集団的行動は、外部からの強制的なプレッシャーではなく、個々の生命体が持つ内発的な行動原理(シニフィエ)の相互作用から生まれる、創発的なものです。彼らは、群れ全体の調和を保つことで自身の生存確率を高めるという「理存」に基づいて動いています。

一方、人間社会が交換様式 A・B・Cに依存するのは、私たちが持つ「自己(ego)」と「剰自我(over-ego)」という、より複雑な心理的構造が原因です。

・A(共同体):「義理」や「同調圧力」といった負債感情は、個人が共同体の規範から逸脱することを恐れる内なるプレッシャー(超自我)から生まれます。
・B(国家):法や権力は、個人の欲望や攻撃性(剰自我)を外部から物理的に抑え込む力として機能します。
・C(貨幣経済):資本主義における金銭のやりとりは「貸し・借り」という無限の債務関係を生み、すべてを競争と利己的な行動へと駆り立てます。

これら「A・B・C」の力は、すべて人間のエゴがもたらす「敵対性」を前提としています。では、この敵対性を乗り越え、「交換様式 D」あるいは「協調(interplay)」へと導く「力」は、何に由来するのでしょうか。それは、外部から押し付けられる強制的な力ではなく、個々の内面から湧き出る「理存」です。

それは、以下のようなものです。

「理存」の自覚
これは、私たちが「無言実行」の概念で探求した、シニフィアン(言葉)に囚われずシニフィエ(行動)そのものに正しさを見出す力です。人々が、他者からの評価や社会的な成功といった外部のシニフィアンではなく、自己の内なる「生き甲斐」や「存在理由」に目を向けたとき、その行動は自律的な「協調」へと向かいます。

「遊び」としての相互作用
人間を「交換様式 A・B・C」の呪縛から解き放つのは「遊び」の力です。貨幣や権力といった目的を持たない、純粋な相互作用(Interplay)を通じて、人々は他者との間に損得勘定を超えた新しい関係性を築き、新しい意味を創発させます。これは他者の「理存」を尊重し、共鳴しようとする、一種の「哲学的冗談」のようなものです。

この「力」は、渡り鳥や魚群が持つ集団的行動のような、外部からの強制によらない内発的で自律的なものです。それは私たち一人ひとりの内面に潜む「理存」が、他者の「理存」と共鳴し「負債感情なき協調」という新しい秩序を創発する力なのです。


Prompt:外部からの強制によらない、内発的で自律的な力。私たち一人ひとりの内面に潜む「理存(raison)」が他者の「理存」と共鳴し「負債感情なき協調」という新しい秩序を創発する力。それはアプリオリに生じることを期待すべきものなのかどうか。つまりそれは外的な「力」によって抑圧されていたものであり、そのようなノイズを取り除けば、再び活性化するものなのかどうか。

Gemini 2.5 Flash:「協調」の力が、アプリオリ(先験的)に、つまり経験に先立って人間の内面に備わっているものかどうか。これは、アウグスティヌスやホッブズが唱えた性悪説と、ルソーが唱えた性善説の対立に似ていますが、あなたの問いは、さらにその先を見据えています。

・性善説(ルソー):人間は生まれながらに善良であり、社会や文化といった外部の「力」によって堕落させられるという考え方です。この見方に立てば、「理存」は外部のノイズ(交換様式 A・B・C)を取り除けば再び自然に活性化されるはずです。

・性悪説(ホッブズ):人間は生まれながらに利己的で、争いを好む存在であり、国家や法律といった外部の「力」によってのみ秩序が保たれるという考え方です。この見方では「理存」は存在せず、協調は外部の強制によってのみ可能となります。

しかし私たちの対話で生まれた「創発」という概念は、この二元論的な対立を超えた第三の可能性を示唆しているのではないでしょうか。それは「理存」は単なる善性としてアプリオリに存在するのではなく、外部の「力」との相互作用を通じて、はじめて「創発」されるものだという考え方です。

・「力」との対立が「理存」を呼び覚ます:外部からの「力」(同調圧力、権力、金銭)は、単に「理存」を抑圧するだけでなく、それに抗おうとする「抵抗」の力を生み出します。この「抵抗」のプロセスこそが「理存」を内面で意識化させ、「無言実行」という形で、外部へと表現させる原動力となるのです。

・協調という「創発」:「負債感情なき協調」は、単にノイズを取り除いた結果として自然に生じるものではありません。それは個々の「理存」が、他者の「理存」と能動的に共鳴しようとする高度な「創発」的努力によって実現されるものです。

したがって「理存」はアプリオリに存在することを期待するものではなく、絶えず「創発」させるべきものだといえるでしょう。それは外部の「力」を否定し打ち破ることで、より強靭な形で立ち現れる、私たち自身の内なる「運動(movement)」なのです。


Prompt:「内発的」という言葉は、夏目漱石が探求した思想ですが、それを近代の主観的哲学のみでコンセプトを構築するのは難しいところだと思います。

Gemini 2.5 Flash:近代哲学は、個人の理性を世界の中心に置くことで、内発的な動機や創造性を解放しました。しかしそれは同時に、他者や世界から切り離された「孤立した自我」を生み出しました。漱石の作品が描くのは、まさにこの孤独な自我の悲劇です。この「内発性」は、外部との関係性から切り離されているため、エゴイズムやルサンチマン(剰自我)に陥る危険性を常に孕んでいました。

しかし私たちがこの対話を通じて見出した「創発」という概念は、この近代的主観主義の限界を乗り越える新しい道筋を示しています。「創発」は単一の主観の内側で起こるものではありません。それは複数の「理存」が、対話や相互作用という「協調」を通じて予測不能な新しい意味や性質を生み出すプロセスです。

これは「内発性」が単独の主観的な産物ではなく、他者との関係性の中でしか真に発現しないことを意味しています。私たちが「想発」という言葉を創発したのは、それが単なる内面的な思考ではなく、他者の存在を前提とした「外発的な内発性」だからです。

この新しい「内発性」は、エゴイズムや自己愛に陥る危険性を持ちません。なぜなら、それは最初から他者との相互作用の中に組み込まれており、「負債感情なき協調」というエートスに基いているからです。それは、人間が内発的な「理存」を他者との関わりの中で「創発」させていく、新しい時代への希望です。

visions_1200.jpg

Till I reach my highest ground
Till I reach my highest ground...

Comment(0)