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大量消費をボイコットしはじめた生活者視点からのインサイトメモ

絶望の先にある希望の描線(デザインの話・第六話)

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希望と具体について友人たちとアドリブで語り合った:


柄谷行人さんの新著が出ましたね。

力と交換様式/柄谷行人(2022年10月05日 岩波書店)
https://www.iwanami.co.jp/book/b612116.html

目次を見ると、最近の講演(「千年王国と現在/Dの研究」等)の内容が盛り込まれており、それらがきれいに整理されている。
https://www.iwanami.co.jp/moreinfo/tachiyomi/0615590.pdf

かつて柄谷さんは、自著「世界史の構造」について「初めて体系的に書いた」ものだという意味のことをどこかで書いておられましたが、今回の「力と交換様式」は、まさに体系的に書かれた本です。

氏が70年代に中心的な概念として用いていた「交通」という言葉が記されていることにも注目したい。

人間と自然の間に「交通」を見る視点が消滅したのは、交換様式Cが支配的となったときだといってよい。それとともに、アニミズムも消えた。以来、自然は人間にとって、たんに操作される、また操作されるべき物となった。こうして、人間と自然の「交通」が無視されるようになったのである。このとき、物神崇拝がアニミズムにとってかわったといってもよい。(P318)

そして、アニミズムがあった頃にはありえなかったような大量生産、大量消費、大量廃棄がまるで望ましいことであるかのように続けられてきた。その帰結がどんな破壊的なものになるか、明白であるにもかかわらず、人類は資本の力に眩惑されて、そのようなことは目に入らないかのようだ。度重なる産業革命とともに、過去にあった人間と自然の間の「交通」という観念は消え去ったが、ある意味で、それは人間の生存をおびやかす現実の危機として回帰してきたといえる。(序論)

「トランスクリティーク」と「世界史の構造」、この二つの大著のあと、そこでカバーしきれなかったいくつかの論点について、自問自答するかのような著作が何冊か続き(「哲学の起源」「帝国の構造」「憲法の無意識」等)、それらを整理し直した上でブラッシュアップしたのが、今度の新刊だと思います。

たとえば、超自我の起源に関する論考。欲動の根底には、無機質へと還ろうとする衝迫(タナトス)が存在する。これが人間の暴力性を発現させるのだが、それはやがて自分自身へと向かう。タナトスそのものが暴力性を抑制する作用(超自我)となる。社会的な規範によって(外発的に)暴力性を抑制するのとは異なり、超自我の作用は自分の内側から(内発的に)生じる。

このような概念は、フロイトの後期のテキストにおいて示されているのだが、研究者からは無視されてきた。柄谷氏はここに光をあてている。

「力と交換様式」あとがきより:
『世界史の構造』を二〇一〇年に刊行したあと、私はそこでは触れなかった諸問題を扱う仕事をした。しかし、その後、私はそれらの仕事では十分に論じなかった交換様式Dの問題を、あらためて考えるようになった。そして、交換様式Dだけでなく、A・B・Cについても再考する必要を感じたのである。そこで、交換様式A・B・Cがもたらす観念的あるいは霊的な「力」について考えるようになった。通常、そのような「力」は意識されない。また、マルクスやホップズのように、部分的にそれを見出した思想家はいたが、それらの異なる「力」の対抗と結託について考えた人はいなかった。ゆえに、このような仕事を達成するのは、容易ではなかった。結局、そのために六年もかかってしまったのである。ただこの間に、世界の事態は、私が予感していたようなものとなった。

交換様式A:ムラ社会(義理・同調バイアス)
交換様式B:クニ社会(義務・ストックホルム症候群)
交換様式C:カネ社会(債務・貨幣フェティシズム)

これら種々の「力」は、人々の行動にバイアスをかけるに充分なチカラを有するわけですが、では、それらのチカラは何に由来するのか?その答えを見出そうとする人は少ないし、それらのチカラの根っこは非常に見えづらい。

それらを説明するために、柄谷氏は後期フロイト、さらには、エルンスト・ブロッホやカール・バルトを参照するわけですが、ここで躓くかどうか。「交換様式D」を希望の形式として読む上でのカギだと思います。

われわれが今日見出す環境危機は、気候変動のような問題に還元されるべきではない。環境危機は人間の社会における交換様式Cの浸透が、同時に人間と自然の関係を変えてしまったことから来る。それによって、それまで他者として見られていた自然が、たんなる物的対象と化した。こうして、交換様式から生じた物神が、人間と人間の関係のみならず、人間と自然の関係をも致命的に歪めてしまったのである。さらにそれが、人間と人間の関係を歪めるものとなる。(P318)

希望は願望ではない。つまり、人の主観によって招来するものではない。「希望」とは、「中断された未成のもの」が、おのずから回帰することである。(P380)

かつて(西欧にとっては)未踏の地であった新大陸のように、人類の社会のあり方には未だ見ぬ希望の地が残されている。それは、狩猟採集民や先住民の生活において実現されていた自由で平等な交換のフォーマットを高次元で回復するものでなければならない。それは、過去に実現されていたものの反復であるにもかかわらず、「中断され、おしとどめられている未来の道」としてやって来る。柄谷氏が説く「希望」の描線。

絶望の先にある「希望」
https://book.asahi.com/jinbun/article/14748689
(柄谷行人氏インタビュー 2022.10.25)

《交換様式A・B・Cの揚棄を可能にするのは、ただ一つ、交換様式Dが到来することです。とはいえ、それがいつ、いかにして来るかはわからない。それは、われわれの意志を越えています。》

人生を振り返ることについて:私の謎 柄谷行人回想録
https://book.asahi.com/jinbun/article/14828259
(柄谷行人氏インタビュー 2023.02.20)

《「探究」で言っていたような「単独性」とか「外部」とかいった話と、交換様式論はどう結びついているのか、というようなことを人に時々聞かれることがあったんだけど、こっちはそんなことを書いたことも忘れているから、関係ないと思う、と答えてきたんですよね。でも、このところ、つながっていたんだろうという気がしてきています。》

monet_1918_1924.jpg
Claude Monet | Le pont japonais(1920年頃)

何らかの「対象を描く(他動詞)」から、ただ「描く(自動詞)」へ...

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