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Philosophical Speculation and Debate in IT Matters

今こそ「連続」の視点から見直そう

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 以前から「連続」が気になっていた。本日は、「連続」について考えてみたい。少し長くなるが、おつきあい願いたい。
「連続」は字の通り、「つらなり、つづく」ということだが、対語として、「非連続」、「不連続」、「離散」、「飛躍」、「とびとび」等々があげられる。
これらと比較しながら、「連続」の役割とその重要性を考えてみたい。

【「連続」について考える理由】
 私は、大学時代に経済学を学んでおり、そのときに読んだマーシャル(Alfred Marshall; 1842-1924)の『経済学原理』のモットーである「自然は飛躍せず(Natura non facit saltum)」という「連続性」を重要視する考え方に共感した(注1)。 その後に、シュムペーター(Joseph Alois Shumpeter; 1883-1950)の『理論経済学の本質と主要内容』や『経済発展の理論』を読み、躍動感のある「非連続」の発展の意義を感じつつも、「連続性」が大切なのではないかと漠然と感じていた。(注2) そして、それから20年以上経過した現在では、どうも「連続vs. 非連続」と考えた場合、飛躍のためには創造的破壊が必要だとか、変化の激しい現代において、非効率な部分を切り捨て、破壊的な変化も受け入れるべきだという形で、「非連続」が重視され、「連続」という考え方が悠長で、甘いものとさえ思われているような節がある。 17世紀の哲学者ライプニッツや18世紀の博物学者リンネも「自然は飛躍せず」という言葉をよく使っていたし、あの自然選択説のダーウィン(Charles Robert Darwin; 1809-1882)でさえも、『種の起源』の中で「自然は飛躍せず」を肯定している(注3)。 遠くは、アリストテレスも、同様に、自然は突然の変化を嫌うとし、自然の変化は一挙に起こるものでなく、徐々に行なわれると考えていたようだ。 これらの古の考えは、過去のもので、現代においては全く通用しないとでもいうような主張が、最近多くなされているような気がしてならない。
 L.ローダン(Larry Laudan)は、『科学は合理的に進歩する -脱パラダイム論へ向けて- ("Progress and Its Problem -Toward a Theory of Scientific Growth-")』の中で、「科学の変化過程について思索をめぐらせてきた学者の間には、科学思想の引き続き起こる革命的な変動に感銘を受ける者と、科学がその歴史を通じてみせる顕著な連続性により鮮やかな印象を受ける者との間の大きな分裂が存在する。「革命派」の学団は連続する科学の時代には全く異質な種類の自然の形而上学が暗黙のうちに前提されていることを殊更に強調する。・・・これと対照的に「連続論者」は、科学がその発見してきたものの大部分をかなりの程度首尾よく温存している点を強調する。・・・以上述べた二つの歴史叙述の学派のいずれも、科学の歴史に含まれている重要な特色に焦点を絞ってきたのであるが、どちらもそれらの特色を説得力をもって統括することには成功しなかった。」(邦訳 村上陽一郎・井山弘幸共訳 P.184-185)と述べているが、どうも、最近は、圧倒的に「非連続」派が幅を利かしているようにしか思えない。 世の中、本当にこれでいいのかとの思いから、「連続」に関して考えることとした。

(注1)マーシャルの著作から
Economic evolution is gradual. Its progress is sometimes arrested or reversed by political catastrophes: but its forward movements are never sudden; for even in the Western world and in Japan it is based on habit, partly conscious, partly unconscious. And though an inventor, or an organizer, or a financier of genius may seem to have modified the economic structure of a people almost at a stroke; yet that part of his influence, which has not been merely superficial and transitory, is found on inquiry to have done little more than bring to a head a broad constructive movement which had long been in preparation. Those manifestations of nature which occur most frequently, and are so orderly that they can be closely watched and narrowly studied, are the basis of economic as of most other scientific work; while those which are spasmodic, infrequent, and difficult of observation, are commonly reserved for special examination at a later stage: and the motto Natura non facit saltum is specially appropriate to a volume on Economic Foundations. (Alfred Marshall "Principles of Economics" Preface to the Eighth Edition P.XiX  Promethheus Books Great Minds Paperback Series)
  〔経済発展は漸進的である。その進歩は、政治的な破局により時には停止され、逆行することがある。しかし、その前進的な展開は決して突発的なものではなく、西洋でも、日本においてさえも、いくらかは意識的、いくらかは無意識な習慣に基づいている。そして、一人の天才的な発明家や組織者、金融業者が一民族の経済構造を一挙に修正したように見えるかもしれない。しかし、単に表面的でなく、一時的でないところは、調べてみると、長い間時間をかけた大掛かりな建設的な展開なものであることがわかる。最も頻繁に起こり、念入りに観察でき、注意深く研究できる秩序だった自然の発現は、他の科学的な研究と同様に、経済研究の基礎である。断続的で、めったに起こらず、観察が不可能なところは、一般に後の段階の特別な審査にとっておかれる。「自然は飛躍せず(Natura non facit saltum)」というモットーは経済学の基礎に関する書物に、特に適切なものである。 (マーシャル著 『経済学原理』 第8版への序言より 慧根訳)〕
(注2)シュムペーターの著作から
 〔自然は飛躍せず(natura non facit saltum)-この命題を題辞としてマーシャル(Marshall)はその著書の冒頭に掲げたが、実際、それはこの著書の特色を適切に表現している。しかし、私は彼に反対して、人間の文化の発展、とりわけ知識の発展は、まさに飛躍的に生ずることを主張したい。力強い跳躍と停滞の時期、溢れるばかりの希望と苦い幻滅とが交替し、たとえ新しいものが古いものに基礎を置いていようとも、発展は決して連続的ではない。われわれの科学は如実にこれを示しているのである。〕(シュムペーター著 『理論経済学の本質と主要内容(上)』 大野忠雄・木村健康・安井琢磨訳 岩波文庫P.52-53)
〔われわれが取り扱おうとしている変化は経済体系の内部から生じるものであり、それはその体系の均衡点を動かすものであって、しかも新しい均衡点は古い均衡点からの微分的な歩みによっては到達しえないようなものである。郵便馬車をいくら連続的に加えても、それによってけっして鉄道をうることはできないであろう。〕(シュムペーター著 『経済発展の理論(上)』 塩野谷祐一・中山伊知郎・東畑精一訳 岩波文庫P.180)

(注3)ダーウィンの著作から
 〔博物学では古くからいわれている「自然は飛躍しない」(Natura non facit saltum)という格言によって証明されている。ほとんどすべての経験にとんだ博物学者の著述で、これが容認されているのをみることができる。ミルヌ・エドワール(Milne Edwards)の適切な表現を借りて、自然は多様性を浪費するが改革は節約する、ということもできる。… なぜ<自然>は、構造から構造へと飛躍しなかったのであろうか。自然がなぜそうしなかったのかは、自然選択説によって明白に理解することができる。なぜなら、自然選択は軽微な継起的変異を利用することによってのみ作用することができるからである。自然はけっして飛躍することができず、短くゆるやかな一歩一歩によって前進するだけなのである。〕(ダーウィン著 『種の起源(上)』 八杉龍一訳岩波P.251-P.252)
 〔自然選択説にもとづけば、「自然は飛躍しない」という博物学の古い格言のもつ完全な意味を明白に理解することができる。もしもわれわれが現在の世界の住者だけをみるなら、この格言は厳密に正しくないであろう。だが、去の住者をみな含めるならば、それは私の学説によって厳密に真理とならねばならないのである。〕(ダーウィン著 『種の起源(上)』 八杉龍一訳P.266)


【数学からみた連続】
 まず、数学から「連続」を見ることにする。
 (a) 素朴な「連続」と「不連続」                                         Continuitydiscontinuity
  私たちが、まず思い浮かべる「連続」は、Fig.1のような切れ目のない、なめらかなグラフである。 そして、Fig.2のような切れ目があるグラフが、「不連続」と考える。
では、Fig.3はどうか? これは、グラフは、下でとがっているが、グラフとしてつながっているので、「連続」ということになる。 これは、折れ線をグラフにもつ関数は、連続関数であるが、折れ線のところで、微分ができないということを意味している。 つまり、「連続」とは、グラフがつながっていることで、「微分できる」というのは、グラフがなめらかであることである。(注4) 他にも、多項式や三角関数をつなぎ合わせることにより、複数の点で、微分不可能な連続関数を作ることができる。
(注4)If a function is continuous over a range, it is continuous at every point of the range and can be represented by a curve which has no gaps and no jumps in the range concerned. This implies, roughly speaking, that the curve can be drawn graphically on squared paper without taking pencil point from paper. It is important, however, to stress the fact that a continuous curve is not necessarily a "smooth" curve (using the everyday meaning of the term "smooth"). Smoothness is, in fact, more limited than continuity. (RGD Allen "Mathematical Analysis for Economists" P.100)
(関数がある範囲において連続なれば、その範囲におけるすべての点においてその関数は、連続である。そして、その範囲において、途切れなく、飛ぶことない曲線によって描かれる。このことは、大雑把に言えば、方眼紙に紙から鉛筆の先を離さず曲線を描けることを意味する。しかしながら、連続な曲線は、〔「なめらか」という通常の意味においての〕「なめらか(スムーズ)」である必要はないという事実を強調することは重要なことである。「なめらかなこと」は、実際、「連続であること」より限定されたものである。  慧根 哲也訳) Differentiation_12

 (b) 極限による「連続」の定義
  (a)の方法では、うまくグラフが書けるような関数であればいいが、上でも書いたように多項式や三角関数をつなぎ合わせたものなどは、なかなかグラフにうまくかけなかったり、正確にかけなかったりするわけで、もう少しまともな(?)定義が必要と思われる。そこで、「限りなく近づく」という極限によって「連続」を定義したものをみてみる。(右参照)         
  (c) ε-δ方式による「連続」の定義
  「xがaに近づくときf(x)がaに近づく」という表現は、Metod_3 まだ直感的ということで、極限に関する細かな考察が出来ないということで、ε-δ方式の定義が登場した。それが、右のものである。
 (d)連続の役割
  微分可能な関数は必ず連続になっているが、その逆は正しくないこと〔(a)素朴な「連続」と「非連続」を参照のこと〕から、微分に「連続であること」が必要である。つまり、微分積分は、連続の世界での話ということである。
連続写像が定義できる世界とは、近さ(距離)や繋がり具合を考えることができる集合の上の話であり、これが位相空間である。 集合に位相を入れて(位相の情報があると、各点〔要素〕が近いか遠いかとか、繋がり具合〔連結性〕を語ることができる)、連続写像を作った後は、いろいろな展開がある。 経済学では、位相数学で論じられるブラウアーの不動点定理を使うことにより、一般均衡解の存在を証明したり、ゲーム理論の「ナッシュ均衡」を導き出せる。(ブラウアーの不動点定理は、連続な関数を前提としている!) 経済学を学んだことのある人は、一般均衡解の存在証明がどれほど重要かわかると思うが、モデルの整合性、論理的妥当性を保証することになる。
数学では、「連続」に対して「不連続」と言い方をしたが、もうひとつに「離散」という対語がある。「連続」と「離散」はアナログの世界とデジタルの世界を意味し、相互の近似的な側面が強かった。しかし、コンピュータが扱う情報はデジタルであることから、離散・有限の対象が明確に現れたことにより、離散構造を扱う離散数学が応用数学の中で重要な位置付けとなった。また、離散数学は, アルゴリズム理論・計算量理論との関連も深い。
そして、最近(1990年以降)では、この相反する概念である「連続」と「離散」をつなぐ数学として「超離散」が研究されている。ソリトン理論だとか可積分系だとか… (『つなぐ』ことに興味のある私には、おもしろそうなテーマなのだが。)

【相反するものを併せ持つこととバランス感覚】
 マーシャルは、1885年にケンブリッジ大学の教授職に選ばれた後に行なった就任講義(「経済学の現状」)の最後に、「冷静なる頭脳と暖かい心(with cool heads but warm hearts)をもって、周りの社会的苦痛に取り組む最良の力の少なくとも幾分かを喜んで提供する者がケンブリッジから増えるようにできる限りのことをしたい」というようなことを述べている。 私は、この「冷静なる頭脳を持って、しかし暖かい心を持って(with cool heads but warm hearts)」という言葉は、"but"と接続詞が使われていることからも、『「冷静な頭脳」と「暖かい心」というある意味相反するもの(両極端)を、混ぜ合わせて真ん中でいくのでなく、うまいバランス感覚で、両極端を使い分けていけ!』と言っていると解釈している。 つまり、決して、両極端のどちらかに偏るということでも、両極端の真ん中でもなく、バランスをよく考えて必要に応じて使い分けていくということが大切であるということだと思っている。 私も、この「両極端を併せ持つ」という考え方は、ひじょうに大切だと思っている。 「連続」と「非連続」という相反するものも同様に、基本的には、片方に偏るのでなく、両方の観点からみるべきだと思っている。しかし、最近の論調は、前ソニーCEOの出井さん(注5)やフィリップ・コトラー(注6)のように、「連続」と「非連続」はともに必要なものの、現在はより「非連続」の視点が大切だというものや、ドラッガーの「企業に必要なのは、マーケティングとイノベーションだ」と断言しているような意見や経済同友会代表幹事の北城さん(日本IBM会長)の2005年度代表幹事所見「イノベーション立国・日本を目指して」(注7)に示されるようなより強く「非連続」に重点が置かれた発言が多く見られるようになっている。そして、この頃はより過激に、「連続」的なものはダメで、「非連続」的なものしか意味がないというような、片方の極端からしか強調しない論調が増えている気がする。

(注5)出井伸之の著作から
 〔ソニーのビジネスには、連続線上で考えていける部分と技術革新などで起こる非連続の部分とが共存しています。連続線上で考える部分では、過去の「負」を改善することも含めてもっとスピードアップしなければなりませんし、後者については、次の「波」をどう探すか、その二つを同時に考えていく必要がある。競争戦略と成長戦略という言い方もできるでしょう。〕(『ONとOFF』 出井伸之 新潮文庫 P.133)
 〔ソニーがソニーらしくあるためには、これまで通りのやり方にしがみついているだけでは十分ではありません。企業レベルでも個人レベルでも、変革し続けなければ、激変する時代に生き残ることはできないのです。
そしてこの変革への挑戦には、本書でも触れた、連続と非連続という二つのアプローチが常に必要です。さらに言うならいま、かつてないほど非連続(=Quantum Leap:クオンタム・リープ)の視点や発想の重要性が高まっているのではないか考えています。〕(『非連続の時代(Quantum Leaps)』 出井伸之 新潮文庫P.261-262)
(注6)コトラーの著作から
 〔企業は連続的な改善と飛躍的なイノベーションを共に追求する必要がある。継続的な改善は企業にとって必須ともいえるものだが、飛躍的なイノベーションのほうが大きな効果を期待できる。たしかにイノベーションはコストがかかり、大きなリスクをともなうが、より持続性の高い競争優位を生む可能性を秘めている。〕(『コトラーのマーケティング・コンセプト』 フィリップ・コトラー著 恩蔵直人監訳 大川修二訳 東洋経済新報社P.114)
(注7)2005年度代表幹事所見「イノベーション立国・日本を目指して」 2005年4月26日 社団法人 経済同友会代表幹事 北城 恪太郎
http://www.doyukai.or.jp/chairmansmsg/pressconf/2005/050426a.htmlより)
 〔わたしは、イノベーションとは、ただ科学技術や企業経営等の狭い範疇に止まるものではないと思っています。それは、過去の経験を超え、既存のものを凌駕する斬新な新機軸を打ち出して、革新的な戦略・発想・技術・製品・サービス等、新たな価値を創造することであり、さらに、生み出された価値を梃子に社会に大きな変革をもたらし、飛躍的な発展につながる原動力を生み出すことです。イノベーションとは、いわば、過去を断ち切り、現状に挑み、未来の価値を創造することだと言えるでしょう。
連続ではなく非連続の変化である点、過去の延長線上での進歩にとどまらず、大きな飛躍を伴う点において、イノベーションは、従来われわれが得意としてきた「カイゼン」と異なると思います。  もちろん、日本が活力・競争力を発揮していくためには、あらゆる分野における継続的な「カイゼン」への取り組みも必要です。しかし、大胆な方針転換や根本的な制度的矛盾の解決のためには、前例を否定し、非連続な変化を引き起こす「イノベーション」と、イノベーションを成長と発展に結びつけるための「戦略」とが必要となるのです。〕

【今こそ、連続的視点を!】
今回、いくつかの視点で述べているので、人によっては、「ごちゃ混ぜで論ずるな」と言われる方もあられるであろう。また、「相反する両極端を併せ持つべき」というなら、「非連続」もいいではないかと言われる方もおられるであろう。 しかし、私は、まず、いまこそ「連続」という視点を重視して、物事を見直すことを提唱したい。 確かに『両極端な視点を併せ持つこと』は必要だが、現在はどうも非連続に重点が置かれすぎ、非連続が正しいものと過信しすぎていると感じるのだ。
以下に私の「連続」に対する考えをあげる。
 1) 理論の連続性
  (a) 一人の人間において、前期、後期と全く理論的に飛躍があるように見えても、それは徐々に変わってきたものであって、飛躍したのではない。
    ヒックス(John R. Hicks: 1904-89)は、1972年に「一般均衡理論の発展と厚生経済学に対する貢献」を理由に、アローとともにノーベル経済学賞を受賞した、イギリスの経済学者である。彼は幅広い分野の経済学を研究したが、よく「前期」ヒックスと「後期」ヒックスと分けられ(注8)、全く別人の理論のように思われている場合がある。このようなことはヒックスに限らず、ウィトゲンシュタイン等々数多くの学者において言われることである。しかし、本当にそのような「非連続」に見えることは突然起こったのであろうか?私は、外から大きな違いがあるように見えても、一人の人間の考えは、いろいろな研究、経験から連続的に徐々に変化したものだと思う。私を例に出すのは、レベルが違いすぎるだろうが、私は大学時代に社会工学を専攻しており、「社会を工学する」ことを真剣に考えていた(大学時代の本への書き込みや、ノート、レポートを見ても)。しかし、20年以上たった現在では、「社会なんて工学できるわけはないし、すべきでもない」と思っている。全く違う考えを述べているわけだが、私の頭の中では、すべてが繋がっている。決して飛躍した結果ではない。(ただし、大学時代に社会工学を学んだことは、現在の私の思考を形成するに当たり、後悔どころか、非常に良かった真剣に思っている。) 生きている中で、思考し続け、あるきっかけで方向変換はするであろうが、思考は連続である。もちろん、微分ができないような点が存在したり、微分係数が大きいような変化があるであろうが、思考は、連続していると信じる。

(注8)
 〔経済学徒が通常抱いているヒックス像からするとやや意外なことに、ヒックスは、こうした経済学における歴史の喪失に対し少なからず危惧の念を抱き続け、遂には、いまや経済学徒の共有財産である彼の「前期」の業績に対して、ほとんど決別に近い姿勢を採るようになっていった。つまり、われわれはここに、「後期」ヒックスという別個の問題があることを知るのである。そして、ヒックスの残した文献を検討してみるに、彼の変貌は、彼の「市場」に対する認識の変化に対応しており、それは、市場把握における「歴史」の復活を目指したものであると同時に、またある意味で、新古典派の原像回帰でもあった。〕(井上義朗著 『市場経済学の源流 マーシャル、ケインズ、ヒックス』 中公新書 はしがきP.ⅳ)

  (b) 従来のパラダイムの理論とその後の理論とにおいても、理論は繋がっている
    例えば、ケインズ(John Maynard Keynes: 1883-1946)の『雇用・利子および貨幣の一般理論』(1936)は、それ以前の経済学の批判として成立したものである。しかし、ケインズは『一般理論』においてマーシャルのへの言及が多数に見られる一方、現在のミクロ経済学のベースであるワルラス(Marie Esprit Leon Walras: 1834-1910)に関してはほとんど言及していない。ケインズはマーシャルの全てを否定したのではなく、マーシャルの理論を基に、ケインズ独自の理論をその上に構築したと考えられないであろうか。 アインシュタインも、十分にニュートンを学んだはずである。その中から、新しい物理学を生み出していったのであり、無から生み出したわけではない。確かに、飛躍しているように見えるが、それぞれは繋がっていると思えてならないし、相対性理論にしても、最終形が、一飛びに完成されたわけではない。

2) ミクロの世界とマクロの世界をつなぐ
 古典物理学は物理量がとびとびの値ととることはなく、われわれの住むマクロの世界は、運動もエネルギーも連続であると捉えていた。しかし、1900年にプランク(Max Karl Ernst Ludwig Planck: 1858-1947)により、物理学の中にはじめて「とびとび、不連続」という概念が持ち込まれた(エネルギー量子仮説)。つまり、ミクロ世界の量子論的粒子が有するエネルギーは、とびとびなのであるというのである。しかし、われわれの住むマクロの世界は、ミクロの世界が集まったものであるはずであり、一度ミクロの粒子、原子がマクロの構造を形成すれば、マクロ的な性質を現すはずである。ミクロの世界は、マクロの世界に連続して繋がっている。マクロの世界の理論(古典物理学)では、ミクロを説明できないが、ミクロの理論である量子物理学は、古典物理学を包含しているということである。
【数学からみた連続】の(d)連続の役割でも、述べたが、数学でも「連続」と「離散」をつなぐ数学が存在する。ミクロの世界が「非連続」であろうと、われわれの住むマクロの世界とミクロの世界は繋がっているのである。

3) 凡人は連続的漸次的前進を
 世の中には、天才より凡人が圧倒的に多い(天才とは何かという議論はあるが)。私を含めて凡人は連続的思考が精一杯だし、それで十分ではないか。 最近、自分の周りを見て、連続的な思考すらできない者が多すぎる。 既に存在する理論、考え、コンセプトのいくつかを結びつけたり、物理的に離れているおもしろい考えを持っている人と人とを会わせて、飛躍というところまでは行かなくとも、少し今までとは違うものを作っていくこと(コーディネートすること)が重要なのではないか。 というより、凡人である私は、このようなやり方でしか、自分の存在理由(raison d'etre)がないと感じている。 よって、システム構築においても、異なる仕組みを「つなぐ(integrate & federate)」ことに興味があり、すでにあるものの適切に使い、如何に簡単に、費用をかけずに、つなぐかを考えている。

4) 「自然は飛躍せず」
 われわれ人間が、必然性を持って徐々に変化してきた自然をこの1、2世紀の間に、人間のために、急速に改変してきた。その反動として、地球の温暖化やウィルス性疾病や自然災害をはじめとして様々な形で自然から逆襲(?)を受け、それらがさらに大きな危険となろうとしている。 古くから言われている「自然は飛躍せず(Natura non facit saltum.)」という言葉を今こそ、かみしめるべきだ。

5) 急激な変化と社会的ロス
 先ごろの「ライブドア・ショック(ほりえもん・ショック)」による株価の暴落の問題に関しては、いろんな意見があるだろうが、私は以下のように感じている。 個人投資家が昨年h急激に増加し、しかもインターネットによる株の売買がおそろしい勢いで増えた。急激な変化である。それらの「にわか投資家」が、「ライブドア・ショック」に一斉に反応してしまったわけである。従来からのもう少し冷静に判断する機関投資家だけなら、あそこまで急激な売り注文を出さなかったであろう。システムもあのような急激な変化にはついていけず、ダウンしてしまった。(想定外であったということは、やはりシステムを作っている人間も大半が、連続的な思考なのだろうし、コスト的な面からも突飛なことを実現できないのだろう。) 『今回のようなことは、資本主義だから仕方ない。今後このようなことに対応できるように教訓として、学んでいくんだ』ということで、本当にいいのだろうか?たった一社のために、社会的に非常に多くの損失が発生したわけである。 多くの損失とは、株を持っていた人の損が出たというだけでない。 信用の崩壊、メディアの無駄なゴミ情報の氾濫、今まで不要だった法規則整備とそれらによる無駄な組織の増大と無駄な対応時間等々のことである。 エンロン、ワールドコム事件の後のSOX法(Sarbanes Oxley act)による無駄と同じような問題がある。(私は、法が悪いといっているのではなく、あのようなことを起こす不正自身に問題があると思うし、その背景に、あまりにも急激な変化を求めている社会にも問題ありと考えている。) あまりも急激な変化は、自然だけでなく、われわれ人間が作っている社会(コンピュータによるシステムも含まれる)もついていけず、ちょっとしたインパクトで、簡単に修復できない大きなダメージ、大きなロスを発生させてしまうことも忘れてはならない。

6) Managing for Continuity (業務継続性の管理)
 先日(2006年1月)シンガポール航空に乗ったとき、機内誌の"SILVERKRIS"のBUSINESSinsightに"MANAGING FOR CONTINUITY"という記事を見つけた。そこには、「過去には、ビジネス継続性の管理管理(Business Continuity Management)を口先で言っていたが、最近では、外的環境が、劇的に変化し、激動し、規制当局や消費者からの圧力も増加し、成功する組織オペレーションの基本要素として、ビジネス継続性の管理の強化が生き残りのためのキーとなっている。」と書かれていた。 この記事に対して、私は二つのことを感じた。一つは、われわれが、急激な変化を起こしてきたことによる、自然災害、テロリズム、サイバー犯罪、ウィルスの突発等々が起こり、それへの対応が常日頃から必要になってしまったこと。 二つ目は、ビジネス・マネージメントにおいても、Continuity(持続性、連続性)ということが、議論されるようになったということ。ただ、これは、一つ目の反省というより、企業が問題を起こしたときの対応が下手な場合に消費者から外方(そっぽ)を向かれ、急激に信用を失い、企業体が消滅することもあり得ることにより、ビジネスの持続性を考えている側面が強そうであることは残念であるが。

7) 人間にとっての連続性
 シューマッハー(E.F. Schumacher: 1911-1977)は、"small is beautiful  - a study of economics as if people mattered -"の中で、〔開発は物から始まらない。開発・発展は、人とその教育・組織そして規律から始まる。これらの三つなくして、すべての資源は、表面に出てこず、埋もれたままである。…開発が創造の行為であり得ない理由、それが発注できなかったり、購入できなかったり、徹底的に計画できなかったりする理由がここにある。進化のプロセスが必要な理由がここにある。 教育は「飛躍」しない。教育は非常に繊細な漸次的なプロセスである。組織も、「飛躍」しない。組織は、環境の変化に適合するために、徐々に進化しなければならない。そして、規律についても同様である。これらの三つ全ては、一歩一歩着実に進化すべきであり、この進化を早めることが、開発政策の最重要任務であるべきだ。これらの三つ全ては、ごく一部の人のものでなく、社会全体のものとならなければならない。(慧根 哲也訳)〕(注9) 私は、個人的には、彼の考えに全面的に賛成である。この本は、政治家、企業人、教育者に特に読んでもらいたい。 昔(昭和48年)、「せまい日本そんなに急いでどこに行く」という標語(?)があったが、日本だけでなく、地球規模で急激な変化でなく、もっとゆっくりした進展を考えるべきだ。日本もせまいが、地球だって、宇宙から見れば、うんと小さなものだ。 「早いもの、強いもの、大きいもの」でないものにも価値を認めることが必要なのだと思う。
   また、早稲田大学教授の加藤諦三さんが、どこか(メモだけしかないので、原典がわからず)で、「飛躍することのないことをくり返すことを通して、人間は最も大切な、生きるということを知るのである。」とおっしゃっておられた。 この言葉は私に大きな感銘を与えた。 人間にとって、「連続」というのは、大切なものなのだ。

(注9)シューマッハーの著作から
Development does not start with goods; it starts with people and their education, organization, and discipline. Without these three, all resources remain latent, untapped, potential...
Here lies the reason why development cannot be an act of creation, why it cannot be ordered, bought, comprehensively planned: why it requires a process of evolution. Education does not 'jump'; it is a gradual process of great subtlety.  Organisation does not 'jump'; it must gradually evolve to fit changing circumstances. And much the same goes for discipline. All three must evolve step by step, and the foremost task of development policy must be to speed this evolution. All three must become the property not merely of a tiny minority, but of the whole society. (E.F.Schumacher  "small is beautiful ‐a study of economic as if people mattered‐" Vintage  P.138-139)

以上、長々と書いてしまった。 あまりにもいろいろな角度から書いたので、論点が絞れなかったかもしれないが、今回はわざといろいろな角度から「連続」を眺めてみた。 「何を甘いことを書いている」と思われる方もおられるであろうが、そういう方も含めて、もう一度「連続」ということを考えていただきたい。 また機会があれば、もう少し深く「連続」ということを考えてみたいと思う。
Natura non facit saltum.

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