優れた発明家や事業家の思考ステップをたどれば良いアイデアに行きつけるのでは?
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発想方法の文献をよく読みます。非常に古い時代から現代の物まで。
同じようなことをすると思い至るのが、1つの素朴な仮説です。
「優れた発明家や事業家の思考ステップをたどれば良いアイデアに行きつけるのでは? 」
実はそうした試みは何度もなされています。しかし、多くの人が途中で困難さを感じてしまします。
着想というのは、ハイキングの時にたまたま差し出した手のひらに葉っぱが舞い降りることと似ています。
「どちらも、その人が、いかにして、それを掴み取れたかを詳しく聞いても、同じことはほとんどことはできない。」
ただ、確率を上げることはできますが。
前置きがなくなりましたが、そうした「新製品を発想する思考の道」として、それでも試みられたものがいくつも存在します。難しいのは同時代的、という点です。ギリシャ時代の製品発想法は現代に通じない部分が多く、時代や文化でかなり具体レベルは変わります。
でも、そうした人々の営みの中で、使い勝手のいい「思考の道」を見出しているものもあります。TRIZという開発工学系の中でも発想に強いものののなかにあります。
それは、9画面法、あるいは、マルチスクリーン、あるいは、9windows、と呼ばれます。
9つの画面、といっても、2つの軸で、3×3の升目で構成されているので、実際は割と本質的な2つの視点が発想の主構造になっています。それについての詳しい話はまた別の所に譲ります。
タイトルの問いに対して、私はたくさんの発想法の文献、発想する人々、クリエーターを見ていて、自分なりに答えを持っています。
それは、「他者の与えしものは、熟達を目指す者にとり、その階段にすぎず。いずれ門を通り、独自の形になりゆく」、と。
武道の、守破離(しゅ・は・り)、これと同じです。
達すれば、いずれそれを超えるものが自分のうちから出てくる。
しかし、そこに達するまでには、型が効果的です。
なので、熟達者たちが語る言葉には「これで打ち止め、と言える方法など、ない。」ということが繰り返し語られますが、その水面下には「さりとて、型や基礎を持たぬ者には、そこに達することも叶わぬ」と。
優れた人に学ぼう、という、創造的努力は、概して無駄になりません。それが明示的にいつまでも使えるものでないとしても。いや、だからこそ。
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