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正常の定義

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まだ行っていないイベントについて書くってどうなの?と怒られてしまいそうですが。いま横浜で、3年に1回のアートイベント「横浜トリエンナーレ」が開催されています:

横浜トリエンナーレ | YOKOHAMA TRIENNALE

2001年から始まったイベントで、今年が第3回目。過去2回は訪れるチャンスが無かったので、今回はぜひ足を運んでみようと思っているのですが、ちょうど昨日のNHK『新日曜美術館』で特集されていて、展示作品の一部を見てしまいました。

*** 以下「ネタバレ」的要素を含むので、新鮮な気持ちで観に行きたいという方はご注意下さい ***

その中で特に印象に残ったのが、ミケランジェロ・ピストレットさんによる「17-1」という作品。どんなものか、公式ブログでも紹介されていましたのでご覧下さい:

横浜トリエンナーレ2008開幕1週間が経ちました (横浜トリエンナーレ2008ブログ)

巨大な17枚の鏡を用意し、それを壁に配置した上で、1枚だけを残して次々にハンマーで割っていく……というパフォーマンスの結果誕生した作品。17枚の鏡を、1枚だけ残して割ってしまう、ので「17-1」というタイトルなのですね。これについて、新日曜美術館で出演者の方々が次のようにコメントしていました:

1枚を残して鏡が割られているのを見ると、割られていない鏡が物足りなく見えてしまう。本来なら割られていない方が正常なのに……。

これがミケランジェロ・ピストレットさんが意図した反応かどうかは分かりませんが、個人的にも(テレビ画面を通してですが)同じことを感じました。ハンマーで叩かれ、放射状にひび割れた鏡たちは何故か美しく、存在感を感じさせます。残された1枚は、まさに「残された」という表現がぴったりで、割られることで「作品」へと変化するのを待っているかのようでした。割れていない方が、道具としては正しい状態であるはずなのですけれどね。

話は変わりますが、先日『マインド・ウォーズ 操作される脳』という本を読了しました(近日中に書評を書くつもりです)。神経科学の発達により、人間の精神が科学的に強化されたり、逆に攻撃されたりすることのリスクを語った本です。その中で、こんな一節が登場します:

健康であるとか病気であるとかいうのは、いったい何を意味しているのだろうか?「健康」と「病気」という概念からは「正常であること」という考えが生まれてくる。これは概ね同意を得ているようだった。統計的な意味から「正常であること」を論じる意見があった一方、「正常である」とは生存と繁殖に関して「種として典型的な機能を」発揮する能力があることだという意見もあった。「健康」や「病気(「dis-ease」は「安楽ではない」という意味)」という概念は直感的な目安としては使いやすいが、どれほど精緻に考察したとしても、たいして正確なものではないという事実は避けがたいようだ。たとえば、40代男性と睡眠促進剤について考えてみよう。この年頃になって睡眠パターンが乱れる男性は多い。仮に、30代か40代あたりにある程度の不眠症が現れるのが人間の男性の典型だとしよう。この場合、アンビエンの服用は睡眠障害の治療なのか、それとも、若いときの睡眠スケジュールを維持するための増強なのか、いったいどちらになるのだろうか?

突き詰めればどんな概念も、禅問答のように覆すことができるのでしょう。しかし正常と異常というのは、実は極めて曖昧な概念なのかもしれません。仮に睡眠薬を飲んでいる40代男性を、「17-1」の「割れていない鏡」に置き換えたとしたら、彼らは正常と見なせるのでしょうか、はたまた異常だと感じられるのでしょうか(逆に睡眠薬を飲んでいる男性を、割れている鏡に置き換えたとしたら?)。

マジョリティだから(17枚中16枚が割れているから割れている方が正常)、本来備えている機能を果たしているから(鏡は姿を写して見るものだから割れていない方が正常)、求められた役割を果たしているから(アート作品を作りたいのだから割れている方が正常、あるいは割れている・割れていない両方が存在するのがアートだからどちらも正常)、等々。さまざまな基準で「正常」を定義することが可能ですが、それは1つしか採用できないというものではなく、また普遍的なものではない。それを理解した上でなければ、何かを正しく判断することはできないのだ――たまたま同じタイミングで触れることができた、この2つの作品(アートと本)は、そんなことを教えてくれているように感じました。忙しくてなかなか時間が無いのですが、横浜トリエンナーレ、行ってみないと。

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