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テレワークという麻薬

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昨日の朝日新聞に、テレワークに関する記事が載っていました。「テレワーク 広がる職種――仕事・生活 両立の切り札に」というタイトルで、サブタイトルには「『生産性上がる』好評」「障害者雇用も広がる」など、賞賛の言葉が踊っています。内容も極めて好意的で、ネガティブな面は一切なし。1週間前の僕であれば、「やっぱりこれからはテレワークだよねー」と感じて終わりだったでしょう。

しかしなぜかタイミングの良いことに、たまたま書店で買った『テレワーク―「未来型労働」の現実』という本を読み終えたばかりでした。この本に興味を持ったのは、単に自分自身がノートPCを抱えて仕事に奔走するテレワーカー(モバイルワーカー)だったからですが、少しでも「テレワーク」という働き方に期待や関心を抱いている方は、本書を読んでおいた方が良いでしょう。正面切って糾弾されることの少ない、テレワークの負の側面が詳しく描かれています。

例えば、朝日新聞の記事でも触れられていた「自宅で使える時間が増えるのでワーク・ライフ・バランスが保たれる」という点。それが実現する可能性もある一方、ワークとライフの境界線があいまいになることで、こんな危険性が潜んでいることが指摘されています:

「自宅で仕事を可能にする」ということは、労働が働き手の私生活に食い込んでくることを意味している。自宅に帰ってまで働かなければならない状況は、歯止めのない労働の安売りをまねく危険性に直結してる。しかも、他人から「不可視」となる在宅労働は、労働条件が過酷であっても、社会問題化しにくいという性質をもつ。

また、テレワークという働き方は、限定的ではあるものの、働く側の自己裁量の幅を拡大する。そのような裁量権の拡大は、一方で、極端な長時間労働や信じられないほどの低報酬労働であっても「働く側がそれを選んでいる」という幻想を生み出していく。その結果、労働条件の良し悪しに関わりなく、ほとんどすべてのテレワーカーたちは、自身の働き方を肯定的にとらえ、「今後もテレワークを続けたい」と意思表明する。

よく指摘される点ですが、自宅で仕事が可能になれば、自分のプライベートな時間をも仕事に捧げることが可能になります。そして今すぐやらなければならない仕事があれば、私生活を犠牲にしても片付けようとするのが典型的な日本人でしょう(その良し悪しを問うつもりはありません)。自らのペースで働いていると信じつつ、実はワーク・ライフ・バランスが崩れるという状況が水面下で進行することにもなるのではないでしょうか。

さらに正社員ではなく、派遣や契約という形でテレワークを行う場合、不当に安い賃金で雇われる「電脳内職」化の危険があることが指摘されます。ちょっと長くなりますが、重要な部分なので引用してみましょう:

本章第1節であげたアンケート結果によれば、データ入力(校正含)の時間あたり報酬は460円で、アドレス収集にいたっては、わずか106円にすぎない。正社員ではなくても、派遣社員やパートタイマーなら、雇用者(企業等に雇われている労働者)として労働基準法による最低賃金制度が適用される。先に紹介したように、地域によって多少の差はあるが、700円程度の時間給が法的に保証されている。中小零細企業などでは、この最低賃金が守られていない例も多いと聞くが、それはともかく違法であり、発覚すれば摘発される行為である。

ところが、請負制によって働く在宅ワーカーの場合、この最低賃金が適用されない。時給106円というような在宅ワークが存在するのは、請負労働だからである。近年、実態は派遣労働なのに、表面的に請負契約をよそおう「偽装請負」が問題になっている。そのような偽装が行われるのは、派遣労働者は最低賃金未満で働かせることができないが、請負で働く労働者なら報酬に下限がないためである。

(中略)

さらに同じ請負労働でも、内職の場合は、一部の業種に限られるものの、家内労働法による最低工賃制度が適用される。たとえば、洋裁の仕事の場合、「スナップ付け」一組につき東京都では17円、大阪府では18円が最低報酬額となる。しかし、この制度が適応されるのは、「物品の製造や加工」にたずさわる場合だけである。情報の加工を行う在宅ワークには、業務の内容を問わず、最低工賃制は適応されない。

こうした法の矛盾点を正さずにテレワークを推し進めれば、違法な労働がますますアングラ化してしまうはずです。さらにテレワークは、労働者同士の連帯を阻害しかねません。意図的かどうかは別にして、いわゆる「格差」を助長するための仕組みとして、テレワークが使われてしまうかもしれないわけです。

要はテレワークは「仕組み」にしか過ぎません。社員同士がライバルとして敵対している会社に社内SNSを入れても、急に社員間のコラボレーションが進むなどということが期待できないように、「テレワークさえ導入されれば未来はバラ色」などという期待はできないでしょう。こういった楽観論に対して、本書の最終章はこう述べています:

もちろん、テレワークも社会現象のひとつであれうから、テレワークの普及が社会に与える反作用もゼロではない。しかし「テレワークの導入で社会はこう変わる」というのは、本来無理のある発想である。むしろ「社会がこう変わるので、テレワークもこう変化する」というのが妥当な推論の導き方であろう。

だから、テレワークを導入しさえすれば、環境問題が改善されたり、少子化対策になったりするという考え方に、筆者は反対を唱えてきた。それは、たとえてみれば「インターネットは世界を民主的に変える」といった予言に類するものでしかない。そのような根拠のない予言は、本当の問題から目をそらす役割を果たすだけなのである。

結局、仕事そのもののあり方が変わらなければ、テレワークはワーク・ライフ・バランスの特効薬にはなり得ないわけですね。逆に労働環境を悪化させかねないという点で、テレワークは「劇薬」指定しなければいけないでしょう。いや、「これがあれば生活が豊かになるかもしれない」という期待を抱かせてしまうという意味では、「麻薬」と呼ぶべきかもしれません。

最後に1つだけ、この本で触れられていなかったポイントを。仮にテレワークが普及したとすれば、それは「日本国外にも仕事をシフトできる可能性が広がった」ということを意味するでしょう。日本語の壁さえ乗り越えられれば、という限定付きですが、海外の安い労働力が日本人テレワーカーと競争する時代が来るかもしれません。そうなれば、テレワーカーの労働状況はさらに悪化しかねないという点も考慮に入れて、テレワークの議論を行わなければならないと思います。

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