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【書評】サンデル教授の新刊『それをお金で買いますか』

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早川書房さまより、マイケル・サンデル教授の新刊『それをお金で買いますか――市場主義の限界』を頂戴しました。ありがとうございます。ということで、いつものように簡単にご紹介と感想を。

それをお金で買いますか――市場主義の限界 それをお金で買いますか――市場主義の限界
マイケル・サンデル Michael J. Sandel 鬼澤 忍

早川書房 2012-05-16
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誤解を恐れずに言えば、本書は非常に有意義な「ビジネス書」であり、多くのビジネスパーソンに手に取って欲しい一冊だと思います。取り上げられている「ビジネス」はユニークなものばかり。命名権や広告化、プライバシーの商品化、インセンティバイズ、予測市場などなど……中には野球中継で「ホームラン」を「バンクワン(※銀行名)・ブラスト」と言い換えて宣伝するという変わったものまで。特に新しいビジネスモデルを探しているベンチャー企業や、大企業の新規事業担当者にとっては、「その手があったか!」という気付きを数多く与えてくれることでしょう。

しかし様々な場所にビジネスを見出せるというのが、本書を読んでもらいたいと感じた理由ではありません。その逆に、本書はあらゆる事象をビジネスに換えることの危険性を訴える一冊です。確かに様々な価値や行動をお金という尺度で計れるようにし、市場の原理で動くようにすることで、新たな価値配分や効率性などが達成される場合があります。しかし市場メカニズムは道徳とは無関係に機能するものであり、その力に寄りそうことは、時に社会の倫理観を破壊する結果を招くことをサンデル教授は指摘します。

例えば本書で紹介されている、バイアティカル(生命保険買い取り)の例を考えてみましょう:

それが始まったのは1980年代から90年代にかけてのことで、エイズの流行がきっかけだった。生命保険買い取り(バイアティカル)産業というのがその呼称だ。それは、エイズ患者をはじめ末期疾患と診断された人々の生命保険の市場だった。仕組みはこうだ。10万ドルの生命保険に入っている人が医師から余命一年と告げられたとする。いまや医療費として、あるいは残された短い人生をただ豊かに生きるために、彼にはお金が必要だとしよう。病に冒されたこの人物から、ある投資家がたとえば5万ドルという割引価格で保険証券を買い取り、毎年の保険料は代わって支払おうと申し出る。原契約者が死亡すると、投資家は10万ドルの死亡保険を受け取る。

一見、すべての当事者にとって申し分のない取引のように思える。死期が近い原契約者は必要な現金を手にするし、投資家は大儲けできる――ただし、その人が予定どおり死んでくれれば。だが、リスクもある。バイアティカル投資では、死亡時に一定の支払い額(この場合は10万ドル)が保証されるものの、収益率は患者の生存期間によって異なる。予定通り1年で死亡すれば、10万ドルの保険証券を5万ドルで買い取った投資家はぼろ儲けだ。

しかし奇跡が起き、あるいは強力な新薬が開発され、末期患者がずっと長生きしたら――投資家は大損することになります。患者が助かるという、道徳的に考えれば望ましい状況が、投資家にとっては最悪の状況になってしまうわけですね。彼らは決して表には出さないでしょうが、投資家が患者の死を願うようになるのは必然であり、もしかしたら「新薬開発には投資しない」といった消極的な形でも何らかの行動を取るようになるかもしれません。

また患者自身に対する印象はどうでしょうか。自分の「死」を換金するというおぞましい状況に対して、心理的な抵抗感を感じつつも、一方で「あの人はバイアティカルを利用できるのに利用しない自分勝手な人」という圧力を感じ、契約に応じるかもしれません。つまり生死という分野にビジネスを持ち込むことによって、倫理観以外の何かが状況を左右する力を持つようになるわけです。

もちろんサンデル教授は、市場メカニズムや「ビジネス化」の全てを否定するわけではありません。効率化や価値の再配分がうまく機能する分野も存在することを認め、先ほどのバイアティカルのような事例でも、一面では当事者たちにメリットをもたらし得ると述べます。しかし市場が道徳を欠いた存在であることは変わらず、それを当てはめる分野を間違えたり、当てはめ方を間違えることで、思いもよらない問題が発生して元には戻せなくなることを本書は指摘しています。

ここから先は個人的な感想ですが、ある課題にビジネスの構造を持ち込むか否か、持ち込むとすればどんな構造であるべきかは、究極的には価値観の問題ではないでしょうか。サンデル教授もこんな表現をしています:

結局のところ市場の問題は、実はわれわれがいかにして共に生きたいかという問題なのだ。

例えば学費が払えない、奨学金も取れなかった苦学生がいるとして、彼らに対して「私生活をライフログに残せば(そしてそのログを自由に使う権利を渡せば)学費を払う」というサービスが始まったとしましょう。つまり問題がビジネス化され、プライバシーが換金可能な商品となったわけです。ある人はこの状況に対して、バカな学生に楽をさせ、大学の価値を損なうものだとして憤るかもしれません。しかしこのサービスは学生たちに新たな道をひらくものだとして、歓迎する人もいるでしょう。どちらの意見が正しいかを決めるのは価値観であり、「大学/大学生とはどんな存在であるべきか」まで突き詰めなければ答えは出ません。

しかしこのサービスが世に出てしまったとしたら、その時点で世界は一変してしまいます。大学生のプライバシーは商品となり、先ほどのバイアティカルのように、「売らない」という選択肢を選んだ苦学生に対して「自己犠牲が足りない」と批判する意見が出てくるかもしれません。逆に学生自身がプライバシーを商品だと意識して、報奨金の出ないリサーチには参加しないという動きが出てくることも考えられるでしょう。そうなれば後戻りはできません。

本書にはそんな、世界を変えてしまったビジネスモデルがいくつも登場します。なってしまったものは仕方がないとして、それを考え、世にもたらした当事者は「世界を変えること」に対する覚悟を持っていたのでしょうか。「世界を変えるサービスをつくる」という言葉を口にするビジネスパーソンを時折目にしますが、彼らがその重さや責任を十分に理解しており、軽々しく行動しているのではないことを願うばかりです。

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