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【書評】『インサイド・アップル』

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早川書房さまより、3月23日に刊行される『インサイド・アップル』をいただきました。ありがとうございます。ということで、いつものように簡単にご紹介と感想を。

ちょうど昨日、こんな発表がなされています:

Apple、配当の開始と自社株の買い戻しを発表 (ITmedia エンタープライズ)

米Appleは3月19日(現地時間)、配当の再開と自社株の買い戻しを発表した。同社は前日に、「現金残高に関する議論の結果」に関する電話会見を開催すると発表し、配当の再開か、大規模買収の発表ではないかとうわさされていた。

Appleが配当を支払うのは1995年12月以来だ。

1995年12月以来の配当――ジョブズがCEOに復帰したのは1997年ですから、彼の在任期間中には配当が行われなかったことになります(これは偶然ではなく、ジョブズがキャッシュを貯め込むのに固執していたことが『インサイド・アップル』でも触れられています)。そしてティム・クック体制が本格始動してからの今回の決定。本書によれば、実は昨年10月18日のアップルの株主向け四半期収支報告において、こんなやり取りがあったとのこと:

 そこで出されたもっとも世俗的な質問に対するクックの答えのなかに、スティーブ・ジョブズが起業し、のちに救った会社にとって自分がどんなCEOであるのかを、図らずも明らかにするものがあった。ここ数年、アップルが収支報告をおこなうたびに、株主からは、配当などで利益を現金で還元する気があるのかという質問があがっていた。たしかに配当は欲しいだろうが、もらえないからといって株を売り払うわけでもないので、毎度のジョークのようなものだ。このときの報告でもやはり配当に関する質問がなされたが、クックの回答はいつもとちがっていた。

「キャッシュを保有しておくか否かについて、信仰めいた考えは持っていません。さまざまなことについて信仰にも似た信念を持っていますが、これだけはちがいます。したがって、われわれはアップルにとって何が最善かと自問しつづけ、アップルにとって最善と信じることをしていくつもりです」

「配当する」という決断一つで、アップルという大企業、しかもスティーブ・ジョブズが自らの意志を遺すため周到につくり上げた組織がガラリと行動を変えるわけではないでしょう。しかし今回の決断は、アップルという企業が「ジョブズのいないアップル」という状態を脱却し、新しい姿へと変貌しようと決意したことを象徴しているのではないでしょうか。

しかしそもそも、ジョブズはアップルという組織をどう運営していたのか。どんな力学と哲学がアップルを支配してきたのか。残念ながらアップルの秘密主義の前に、これまでその詳細はほとんど明らかにされてきませんでした。そこで登場するのが本書『インサイド・アップル』。著者のアダム・ラシンスキー氏はフォーチュン誌のシニアエディターで、数多くの関係者(アップル経営層・社員・元社員etc.)への聞き取り調査などを通じ、秘密のベールを剥いでゆきます。そこで明らかにされるのは、最近の経営書で「ベストプラクティス」として讃えられるような手法とは、およそかけ離れたアップルの姿です。社員間のコミュニケーションすら許さない秘密主義。スティーブ・ジョブズという絶対君主への権力の集中。そして独善的・高圧的な取引先への態度などなど――「アップル」と「ジョブズ」という名前を塗りつぶして本書を経営書コーナーに並べておいたら、なんだこの問題企業は?と驚かれてしまうかもしれません。

実際、アップルやジョブズが経営のロールモデルとして捉えられるようになってきたのは、最近の話であることが指摘されています:

 長年、アップルをまねてはいけないというのがシリコンバレーの教えだった。ビジネスでも、ハードウェアやソフトウェアの開発でも「閉じた」アップルのアプローチは、重大な戦略的誤りであり、だからこそ技術で劣るマイクロソフトに業界を支配されてしまったのだと。この10数年、アップルは成功しつづけてきたが、公然とアップルを模倣する大企業はほとんどない。たとえばHPはラテンアメリカとカナダで小売店の実験を行っているが、アメリカではやっていない。

 アップルの流儀に魅惑されるのは、シリコンバレーにいる比較的若い世代の起業家に多いようだ。そうしたテクノロジー2.0の申し子たちは、アップルの細部へのこだわりや、消費者を誘惑して魅了する閉じた世界を作る能力を高く評価する。

このように、MBA的な経営アプローチから見れば「問題企業」であるアップルが奇跡的な成功を収めてきたこと、そしてそれに経営の理想像を見る起業家が存在することも事実です。通常であれば問題点になる要素が、スティーブ・ジョブズという存在が加わることで強みに転化される様子を、本書を通じて見ることができるでしょう。その意味で、経営とはいくつかの要素で語れるものでもなければ、ましてや「銀の弾丸」一発で成功が確約されるものではなく、あくまでもシステム(そして社外環境も含めたエコシステム)としてどう回してゆくことができるかに左右されることを本書は思い出させてくれます。

それではジョブズなきあと、アップルというシステムが生き残ることは可能なのか。本書は肯定的な意見と否定的な意見の両方を上げ、読者に判断を任せているのですが、1つだけアップルの失敗が避けられない運命ではないことを感じさせるエピソードがあります:

 アップルの経営陣は「スティーブならどうする?」と自問するのをやめて、自分たちが最善と考えることをしなければならない。実際、クックはジョブズの生涯を讃える社内式典で、別れに臨んでのジョブズからのアドバイスは「ジョブズならどうするかと考えるな。正しいことをするだけでいい」だったと話した。

ジョブズの指示に徹底的に従うことを求められてきた現在の経営陣が、ジョブズからの最後の指示「ジョブズならどうするかと考えるな」にどこまで従って行動することができるか。逆説的ですが、それが今後のアップルを左右するのかもしれません。そして冒頭の「17年ぶりの配当再開」というニュースを見る限り、アップルはジョブズが求めた方向に進み始めたと言えるのではないでしょうか。

インサイド・アップル インサイド・アップル
アダム・ラシンスキー 依田 卓巳

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