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恐怖がパンデミックを生む――書評『リスクにあなたは騙される』

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5月13日現在、その伝染病の感染者は日本国内だけで319人。致死率は0.2%程度と弱いながらも、妊娠中の女性は流産や早産のリスクを高めるなど、決して油断できない病気です。日頃の健康管理を徹底するとともに、人混みを避ける、人の多い場所に行く際にはマスクをつけるなどの予防をしましょう……

新型インフルエンザの話、ではありません。実は日本にはもう1つやっかいな伝染症が存在しており、昨年も1万人を超える感染者が出たのですが、それが何かは後でご説明しましょう(実はこの病気、2007年にも騒ぎになっています)。

早川書房様より、『リスクにあなたは騙される―「恐怖」を操る論理』をご献本いただきました。この本、新型インフルエンザが大問題となっている今まさに読むべき本だと思います。最近、行動経済学に関するものを中心に「人はなぜリスクを正しく判断できないか」を解説した本が何冊か登場していますが、本書もその中の一つ。ただしこの本がユニークなのは、そんな「リスクを正しく判断できない性質」をメディアや企業がどう利用・悪用しているかについて、様々な事例や研究結果を基に追求している点。かつて米国のルーズベルト大統領は、「我々が唯一恐れなければならないものは恐怖そのものだ」という有名な言葉を残しましたが、その言葉が単なるレトリックではないことを実感できるでしょう。

私たちが危険性を正しく把握できないことについては、既に様々な事例から明らかになっています。例えばよく指摘されることですが、実際には自動車で事故に遭う危険性の方がずっと高いのに、飛行機に乗ることを恐れるという心理がありますよね。その背景には様々な原因が存在しているわけですが、1つには「飛行機事故が起きるとメディアが大々的に取り上げるため、その発生頻度や悲惨さがより大きく認識される」ということが挙げられるでしょう。この点について、本書で興味深い調査(2003年に英国のシンクタンクが行ったもの)の結果が紹介されています:

「調査したすべてのメディアの中で、2つのカテゴリーのニュースが優性を占めていた。1つは国民健康保険制度である。大部分が、国レベルまたは地方レベルでこの制度が陥っている危機に関するニュースであり、たとえば、待ち時間の増加や十分な治療が受けにくくなっていることなどでる。もう1つは健康『不安』つまり、広く報道されているが、病気や早死に与える実証可能な影響をほとんど伴わないことが多い公衆衛生に対するリスクである」。2つ目のカテゴリーには、いわゆる狂牛病やSARS、鳥インフルエンザが含まれていて、そのすべてがたっぷりと新奇性を提供していた。無視されていたものは何か?喫煙やアルコール、肥満がもたらす緩慢で日常的な大量の犠牲である。ある死因のニュースの数をそれがもたらした死者数と比較することによって、「ニュース1件あたりの死者数」を算出し、「ニュースになるためには、何人の人が特定の病気によって死ななければならないかが調べられた。その結果、たとえば、調査対象となったBBCのニュース番組の喫煙に関するニュース1件に対して、8571人が喫煙によって死亡していることがわかった。これと対照的に、新変異型クロイツフェルト・ヤコブ病(狂牛病)による死者は、BBCのニュースになるために、わずか0.33人しか必要なかった」。

何かを連想させる話ではありませんか?最近の新型インフルエンザをめぐる報道についても、この傾向が当てはまっていると思います。WHOの発表によれば、新型インフルエンザの致死率は0.4%であり、日本国内ではまだ死者は出ていません。リスクという側面からだけ考えれば、喫煙や自動車事故による死亡についてももっと報道されてしかるべきでしょう。

いやいや、感染症と喫煙・事故を一緒にしてもらっては困る、と思われますか?そこで冒頭の例に戻るのですが、ここで挙げたのは新型インフルエンザではなく、実は麻しん(はしか)に関するデータです。詳しいソースをご覧になりたい方は、以下のページ等をご参照下さい:

麻疹 (国立感染症研究所 感染症情報センター)

致死率は新型インフルエンザに対して若干低いとはいえ、麻しんも立派な(?)感染症であり、死亡を含めた様々な健康障害を引き起こします。2007年に流行した際には、多くの中学・高校・大学が休校しましたよね。それを考えれば、麻しんだって現在の新型インフルエンザ並みの扱いがされても良いはずです。

そうは言っても、新型インフルエンザには強毒化のリスクもあるし、多少過剰なぐらい恐怖を煽ったっていいじゃないか……と思われる方もいらっしゃると思います。この点についても、本書の議論を引用しておきましょう:

きわめて実現しそうにない恐怖に屈すると、よくない結果を招く。すべてのドアに鍵をかけ、すべての訪問者を殺人狂の可能性があるものとして取り扱うようになると、地域と学校のつながりが断たれる。これはあきらかに損失である。なぜなら、研究によって示されているように、学校は地域とのつながりが強いとき最もうまく機能するからである。金属探知機や警備員、銃を持った男からどうやって逃げるかを子供に教えるコンサルタントにお金を使えば、本や教師やほかの子供たちが本当に必要としているあらゆるものにお金が使うことができない。

これは学校における銃乱射事件を念頭に置いたものですが、ここで示される「リソース」や、「コスト(金銭的なものだけでなく、「地域とのつながり」といった非金銭的なものを含む)」という概念は、感染症対策の場合にも当てはまるでしょう。実際、今回の新型インフルエンザ騒動では、マスクやタミフルといったリソースが消費されています。これらが失われ、別の感染症が猛威をふるうリスクと、新型インフルエンザがもたらすリスクが正しく比較されていると言えるでしょうか。

さらに今回の騒動があまりにも大きくなってしまったために、新型インフルエンザの発生そのものが報告されていないのではないか、という指摘もあります。噂レベルに過ぎないとはいえ、現在の感染者・感染者の所属組織・住んでいる地域に対して過剰な非難を行う人々が出ていることを考えると、「ちょっと具合が悪くても言わないでおこう」と考える人がいてもおかしくないのではないでしょうか。これも、恐怖がもたらす見えないコストの1つと言えるでしょう。

もちろん今回の新型インフルエンザは無視して良いものではありません。しかし私たちはリソースが有限な世界に生きているのであり、さらにあらゆる善意が必ず良い結果をもたらすとは限りません。恐怖に煽られたり、恐怖を煽ろうとする存在に流されるのではなく、理性的な対応を心掛けなければならないのではないでしょうか。そのために大きな手助けをしてくれる一冊が、本書だと思います。

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