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「Twitter で葬儀の中継」は許されるのか

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米国で、ある新聞記者が事故で亡くなった少年の葬儀を取材し、Twitter 上で実況中継を行ったことに対して非難が起きています。簡単な経緯を個人ブログの方でまとめましたので、詳しくは以下をご参照下さい:

Twitter で行われた、「葬儀の実況中継」

この記者は、Rocky Mountain News 紙の Berny Morson という方で、検索すると次のアカウントがヒットします。書かれている内容、タイミングから見て、恐らくこちらが彼のものかと:

RMN_Berny

こちらを見る限り、「父親はむせび泣いている」など、Morson 氏は事実の描写に徹しています。従って「何が書かれたか」ではなく「何を通じて」「どんなタイミングで」このレポートを行ったのか、ということが議論の対象となっているようです。

この件に対して、Rocky Mountain News 紙自身が次の記事をアップしています:

TEMPLE: New tech raises taste questions (Rocky Mountain News)

長くなりますが、以下に主張のポイントを引用してみたいと思います:

As is our custom, we asked the parents of Marten Kudlis whether we could cover his funeral. To be clear: We never enter funeral services to report on them without the family's permission. Period.

What was different in this case was that a reporter sent live updates via text message from his phone to our Web site during the service. He did so using a program called Twitter.

通常通り、私たちは Marten Kudlis 君(※事故で亡くなった3歳の少年)の両親に対し、葬儀を取材することについて許可を求めた。はっきりさせておきたい:私たちは家族の許可がない限り、葬儀の場に立ち入って取材することはない。以上。

今回、通常と異なっていたのは、記者が携帯電話のテキストメッセージを使って、葬儀が行われている間にウェブサイト上で生中継を行ったことだった。彼は Twitter と呼ばれるプログラムを使った。

(中略)

"I think the glitz of technology has taken over common sense," wrote Michelle Ferrier, a columnist and managing editor, online community hubs, for the Daytona Beach News-Journal.

Later, in an e-mail exchange with another online writer that was copied to me, Ferrier went farther.

"I think all live coverage of the funerals of private individuals should be banned," she wrote.

Well, when I hear journalists arguing for the "banning" of any kind of speech, I tend to get my back up.

But in her blog she did ask a good question: "Can someone explain the news value of this tweet stream for Rocky Mountain News readers?"

So let me try to expand on my e-mail response to her, where I wrote: "As a reader, I would have been interested in hearing what was happening during the funeral. Who was there. How many people. Anything special about the way the service was handled. Etc."

Most of us couldn't attend the service. But that doesn't mean we don't empathize with the family and don't want to join in their mourning in some way. Marten was one family's son before he died. But because of the way he died, his loss was felt by thousands.

「テクノロジーの華々しさが、常識をどこかに追いやってしまったのだと思う」 Daytona Beach News-Journal のコラムニスト兼編集長である Michelle Ferrier は、このように述べた。

さらに他のオンライン上での記者と交わしたメールの中で、彼女は次のように踏み込んでいる。

「個人の葬儀を生中継することは、全面的に禁止されるべきだと思う」

どんな種類の発言であろうと、ジャーナリストがその禁止を主張するのを聞くと、私は怒りを覚える。

しかし彼女はブログで良い質問をしている。「この Twitter が Rocky Mountain News の読者に与える価値が何なのか、誰か説明してくれないだろうか?」

私は彼女への返答として、メールに次のように書いた。「読者として、私は葬儀でどんなことが起きるのかに興味がある。誰がいるのか。何人参列するのか。葬儀が執り行われるにあたって、何か特別なことはないか。などである」

ほとんどの人は、葬儀には参列できない。しかしそれは、家族に共感を抱いていないというわけではなく、葬儀にはどんな形であれ参加したくないというわけでもない。Marten は無くなる前、ある家族の息子だった。彼が事故にあったことで、彼の死を多くの人々が悼むようになったのだ。

(中略)

Ultimately, to me, it's all about execution. Poorly done, such journalism might very well feel inappropriate. Done well, I don't think so.

詰まるところ、私にとっては、これは全てやり方の問題なのだ。下手に行えば、不適切だと感じられるだろう。上手にやれば、そうなるとは思わない。

(中略)

For example, not too long ago we ran a report about a program that helps parents who lose babies by taking photographs of them with their child moments after their death. The pictures were unbelievably tender and presented in a sensitive way. I received no complaints.

We must learn to use the new tools at our disposal. Yes, there are going to be times we make mistakes, just as we do in our newspaper.

But that doesn't mean we shouldn't try something. It means we need to learn to do it well. That is our mission.

例えば、それほど昔の話ではないが、私たちは子供を亡くした親をサポートするプログラムについて取材を行った。子供が亡くなった直後、彼らと一緒にいる親たちの姿を写真に収めた。写真は非常に感動的なもので、十分な配慮のもとで公開された。私は何の非難も受けなかった。

私たちは、新しいツールの使い方を自由に学べなければならない。そう、間違いを犯す時期もあるだろう。私たちの新聞がしたように。

しかしそれは、何もすべきではないという意味ではない。上手いやり方を学ばなければならないという意味だ。それが私たちの使命だ。

この主張、どう感じられたでしょうか。個人的には同意できる部分と、そうでない部分が入り混ざっています。

仮に(考えたくもありませんが)僕の家族の誰かが「ニュース性の高い形で」亡くなったとしたら。どんな場合でも、記者や野次馬には押し寄せてきて欲しくないと思うでしょう。「葬儀の様子を皆が知りたがっている。生中継させろ」などと言われても、到底納得できるはずがありません(ニュース性が高ければ、誰でも「公人」になるのでしょうか?そもそも「ニュース性が高いかどうか」を判断するのは誰?)。Twitter を使うかどうか、などというのは副次的な問題です。

しかし式の進行を妨げない形で、私たちの気持ちに配慮した取材を行ってくれるのなら。少数の人物を選んで(新聞社に属しているかどうかではなく、過去に誠意ある取材活動を行っているかどうかで)、取材を許可するかもしれません。Twitter を使って良いか、と聞かれたら、違和感を覚えつつも反対はしないでしょう。繰り返しますが、どんなツールを使って取材・報道を行うかは副次的な問題だと感じると思います。

その意味で、Rocky Mountain News 紙の記事にあったように「全てはやり方の問題」になってしまうのではないでしょうか。遺族の気持ちに配慮しなければ、カメラですら不適切なツールになります。その意味で、学ぶべきはツールの使い方ではなく、正しい報道のあり方なのではないかと思います。その「正しさ」が何か、という部分を判断するのが非常に難しい問題なわけですが。

そして以前も書いた通り、技術の進歩によって誰でも「報道」という行為が可能になっている以上、この問題はジャーナリストだけでなく私たち全員が考えていかなければならないと思います。特に Twitter のような新しいテクノロジーの活用は、マスメディアよりも一般人の間で使われ出す方がずっと早いのですから、ジャーナリスト以上に私たちが議論の主導権を握らなければいけないのかもしれません。

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