私が小学校の教師になったわけ
小学校4年生の頃でした。長崎に旅行に行った時、お土産物の店で、瓢箪のような形をしたビードロ細工を見つけ、衝撃を受けました。瓢箪の下の部分にある色のついた液体を手で温めると、液体が瓢箪の上の部分に上がっていくのです!私はこれを買ってもらい、何度も何度も液体が上に上がって行く様子を眺めました。辞書や百科事典を必至で調べましたが液体の正体がわかりません。 父に相談して、知人の理科の先生を紹介してもらい、そこに電話をして、沸点が低い「ジクロロメタン」という液体と、「サイフォンの原理」について教えてもらいました。その時の喜びは、今でも覚えています。
その体験を友達にどうしても伝えたくなり、翌日学校に持って行きました。半ば興奮しながら友達に説明し貸してあげていると、当時の担任の先生は、「明、それはすごいね!みんなの前で説明してくれる?」と、発表の場を与えてくれたのです。当然、張り切って実演・説明し、いろんな友達に貸してあげました。
私は休み時間にもジャングルジムのところへ行き、他学年の子にも説明し触らせてあげていました。ところが、何かの拍子にビードロが割れてしまいました。「外にもって行くとが悪かとさ!」と友達から言われ大泣きしましたが、担任の先生は、「明は、不思議だなと思ったことをみんなに伝えたかっただけなんやけん、責めたらいかんよ」と言ってなだめてくれました。私の純粋な学びの意欲・知的好奇心が認めてもらえた原体験をしたわけです。私が無意識の中で、この先生への憧れをもち、こんな大人になりたいと思った瞬間だったのではと、今になって思います。
私は小さい頃から比較的早く言葉を覚え文字を書き、よく本を読み、気の利いた子だと褒められて育ちました。何もしなくても学校の成績が良く、毎年学級委員に推薦されました。でも、学校の授業が面白いと思ったことは一度もなく、宿題は当日の朝登校後10分程度で終わらせ、家でした記憶はありません。それは高校生まで続き、勉強は大嫌い、気が進まない授業は出ないで部室で過ごし、家庭学習の時間はゼロでした。それでもそれなりの成績を保っており、そのことで周りから認められていました。大学進学の時期になり、私は理由を明確に意識しないまま、只々小学校の教師になるんだと教育学部ばかりを受験し、教員採用試験をパスし、今こうして教師になっているわけです。
今考えてみると、私は「気が利いている」「成績が良い」という条件付きで他人から認められる体験を積み重ねてきており、勝手に、「そういう周りの期待に応え続ける」ことが唯一自分を保つ術だと思っていたふしがありました。大人になってからもそのことに囚われ悩んでいた時期がありました。それでも私の無意識の中には、小学校4年生の時に体験した「自分らしさを認められた喜び」が確固として残っており、「子どもの『その子らしさ』を認め可愛がってあげられるあの担任の先生のような大人になろう」と思った。これが教師になろうと思った理由だったんだなと、今では言葉にし明確に意識することができます。
精神分析学者のジークムント・フロイトの学説によれば、人間が意識して表出している部分は人間の心のほんの一部に過ぎず、その大部分は無意識の中にあるといいます。「この子の無意識の中には何があるんだろう?」「この保護者さんの無意識の中には何があるんだろう?」と考え何らか働きかけようとすることが、子どもや親に「寄り添う」ということだと私は考えています。
今、小学校の現場で日々子どもたちと接していると、「その子らしさ」を発揮できていない子が少なからずいることに毎年のように気付きます。ありのままの「その子らしさ」が条件無しで受け入れられておらず愛情不足なお子さんだと問題行動として無意識が表に出てくることが多いと思います。一方、一見真面目でおとなしく学業も優秀だがもうひとつ子どもらしい目の輝きが感じられない、といったケースもあります。これは、私と同じで条件付きの愛情に囚われているケースでしょう。その子の生育歴、家庭環境、入学してからの記録を読んだり保護者さんや元担任と話をしたり、本人と話をしたりして情報を集めているうちに、その子の無意識の中に潜んでいて表出されていない『その子らしさ』を発見できることがあり、認め、褒めるように心がけています。
学力向上に力を入れている学校、最新のICT設備が整っている学校云々の前に、「子どもの『その子らしさ』を認め、褒め、協働して子どもたちを育てようという教師集団がいる学校」が、良い学校、安心して楽しく学べる学校なんだと思います。世界一忙しいと言われる日本の公教育現場の中で、どうしたらそれを実現できるのか?日々模索しながら前進させるのが、私の仕事だと思っています。教師や保護者のみなさん、その子の「その子らしさ」を発見し、条件無しで受け入れてあげることができておられますか?