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夏目房之介の「で?」

中島隆「『COM』と『あっぷる・こあ』 ぐら・こん関西支部顛末記」

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「ビランジ」という、竹内オサムさんが出されているマンガや児童文化に関する私家版研究雑誌がある。竹内さんの修士論文連載や、丸山昭さんのインタビュー、対談記事連載(今は、亡くなったうしおそうじとの対談を連載中)、高取英のエロ劇画編集時代の記録など、研究者には必読の記事満載の研究誌なのだが、その最新号(27号 3月18日刊)に、中島隆「『COM』と『あっぷる・こあ』 ぐら・こん関西支部顛末記」という文章が載っている。

竹内オサムさんのホームページ → http://www8.plala.or.jp/otakeuch/index.html

中島氏とは、70年代に東京でおつきあいがあり、当時新人だった六田登氏のところに遊びに寄ったり、彼を週刊朝日に紹介して、コラムに登場してもらったした(同じコラムに米沢嘉博氏も登場してもらった)。彼は、六田氏と引田慎二氏らのエージェントのようなことをしていたと記憶する。
が、この記事によると、74年9月、「COM」誌に始まったマンガ青年読者たちの「ぐら・こん」支部の活動を何とか残そうと、東京で集会を開いたときに、僕も参加しているらしい。そこには霜月たかなか、米沢嘉博、亜庭じゅん(「迷宮」のメンバー)、雑賀陽平、同人誌「跋折羅」メンバーなどが参加したらしく、ひょっとして僕がこれらの人たちと初めて会った時期かもしれない。でも、僕は何ひとつおぼえてない。多分、同人誌や集団を組んでの活動に興味がなかったせいかもしれないが、それにしても記憶は真っ白。

その後、「ぐら・こん」的な読者・作者共同体の運動は、霜月氏、米澤氏らの「コミケ」に展開していくのだが、この集会時点で中島氏はその動きをまったく知らず、長く挫折感を抱えていたようだ。それが、霜月氏の『コミックマーケット創世記』(朝日新書)を読み、その後の座談会にも出席して、失われたピースをはめ込むことができ、竹内さんの依頼でこの文章を書いたとある。

この当時のマンガ青年たちの混乱と紆余曲折は、僕自身は全然部外者で知らなかったけれど、当事者の知り合いの言葉の端々から相当深い疑心暗鬼や反発、いいがたい思いがあったことを感じてはいた。中島氏の文章は、その一部を明かしてくれている。何か所か、『コミケ創世記』の記述に関して「誤り」と指摘している部分もあり、研究者にとっては貴重なのだが、それ以上に当時のマンガ青年たちのいきかいと思いを知る重要な資料となるものだと思う。

中島氏は、けっこうアクの強いキャラだったし、自信過剰と感じる人も多かろうと僕は記憶しているので、あるいはこうした過程で毀誉褒貶が多いかもしれない。でも、僕はそういうしがらみは全然知らず、ただ面白くて好きな人だったので、つきあったのだと思う。その彼が、今書いている文章には、何か「痛切な率直さ」ともでいうべきものがある。当時の自分への残念な思いと、ようやくさまざまなことがつながって見えたことの嬉しさと、自分を歴史の一場面として見直すことの必然がないまざって、事情を知らない僕でも感動した。

文中、『おたくの起源』を書いた吉本たいまつ氏から、若手研究者の間で「ミッシング・リング」と呼ばれている「ぐら・こん」から「コミケ」への移行が見えたとお礼をいわれたとある。まさに、このあたりのことは、当事者でさえ見通せない混沌があって、また語りたくない、語りにくい事象でもあり、今となっては謎のようになっているのだと思う。こういう形で検証可能な記録を残してくれれば、研究者にとってありがたいことだ。
なかば自己批判ともとれる文章だが、そこに喜びが感じられるのは、中島氏自身にとっても、それが長い間謎だったからだろう。

僕の旧知の友人だったこともあるが、一読感動したので、書き残しておく。

参考 霜月氏『コミケ創世記』についてのブログ記事 → http://blogs.itmedia.co.jp/natsume/2008/12/post-4d64.html

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