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夏目房之介の「で?」

吉村和真「〈似顔絵〉の成立とまんが -顔を見ているのは誰か」

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この論文はジャクリーヌ・ベルント編『マン美研』(醍醐書房)に収録されていて、マンガ史を原理的に考える上でとても重要な論文の一つだし、グルンステン『線が顔になるとき』のゼミでの議論にも、今回の学部講義にも使わせてもらったけど、一箇所、吉村氏の人徳を感じるところがあって、感心したので書いておきたい。

論文の冒頭、マンガにおける登場人物の顔の重要性について書かれたところの註3にこうある。

〈マンガの顔をめぐる示唆深い論考として四方田(1994)がある。マンガにとっての重要表現である顔やそれを構成する鼻、眼などがいかなる登場人物のコード・感情のコード・行動のコードとして機能しているか、その変遷を追いつつ考察が展開される。これに対し、後に見るように、本稿はいかに現在のように顔が重要表現としてマンガ・漫画の中に位置付くに至ったのかを明かにしようとするものであり、四方田の成果に対する具体的アプローチは、今回の考察結果を踏まえたうえでの試みとなる。〉同書 95p

要するに、四方田の共時的な分析に対し、その成果を受けて、通時的な側面からその現象の成立を追った論だとことわっているのだが、先行研究成果へのじゅうぶんな敬意が払われ、その足りない部分を補ってゆく生産的な批判にもなりえている。こういう場合、人は往々にしてまず選考研究の足りない部分を簡単に「批判」してしまう。まるで、その研究があった同時点でも同じことが可能であったかのように。
でも、実際には先に研究するということは、けっこう見えない障害や限界がたくさんあって、たんに後からきたからできたにすぎないことも多い。また「批判」されたほうは、やはり人間だから、否定されたように感じて反批判したり、結果つまらないことになりがちである。先行研究へのこうした配慮は、できそうに見えて、じつはなかなかできない。たんに人柄の良さだけではなく、じつはものを考え、研究したりすることの置かれた文脈、歴史的な限界についてどれほどわかっているかにかかわるんじゃないかと僕は思う。
批判しなければならないというのは、よっぽどのことだと思うし、そうしないと先にいけないからだと僕は思っていて、そうであればなおさら成果への評価もあるべきだろう。批判という行為がすべてそうだとは思わないし、批判のための批判しかできない時代状況もあると思うが、できるならただ批判だけではなくて、まず成果の評価があったほうが生産的だろうと思う。
吉村氏の註釈は、文字の上では「批判」ではない。ただ、彼の論文を読めば、四方田論文の先へ行く可能性が見えるという形で、実質的に研究を進めている。これは凡庸な「批判」より手間もかかるし難しい。だから意味も価値のあることなのだ。批判するなら、まず構築したいし、もし構築したことで批判が必要なくなれば、そのほうがいいのだと思う。
とはいえ、自分のこと考えてもなかなかそうはいかないけどね。

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