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【書評】『大泥棒』:義賊の消滅が意味するもの

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著者: 清永 賢二
東洋経済新報社 / 単行本 / 444ページ / 2011-06-10
ISBN/EAN: 9784492044261

かつて義賊と呼ばれる人たちがいた。江戸時代のねずみ小僧や、石川五右衛門などに代表されるいわゆる社会派の大泥棒のことである。彼らは自らを賊と言うように、いやゆるコソ泥とは一線を画し、孤高の自尊心と賊として生涯を終えるという固い信念を持っていたという。

ところが、もはや小説やテレビの中でしかお目にかかれない存在と思われた義賊は、どっこい現代においても、ひっそりと生き延びていていたのである。江戸時代から伝承された技を磨き、表向きはどこにでもいる貧乏たらしい平凡な市井の一市民として人生を送った「忍びの弥三郎」。本書は、最後の賊とも言われた弥三郎の獄中日記を読み解いた一冊。

◆本書の目次
第1章 「獄中日記」を読み解くにあたり
第2章 忍びの弥三郎の仮相と実相
第3章 犯罪発生の一般原理
第4章 探る
第5章 獲る
第6章 退散する
第7章 日記を読み終えて

著者は、かつて警視庁の研究室長までつとめた大学教授。そんな著者がまとめた「賊であるための9つのポイント」は以下のようなもの。

◆賊であるための9つのポイント
1.金品を盗むという目的を達成するためには、
2.独立独歩の家業を営むことを旨とし、
3.人間さえ殺傷しなければ、
4.必要なときにはいかなる「被害物・人間以外の生き物・障害物」をも襲い、
5.回復不可能なまでに破壊・略奪する野獣的凶暴さを体内に秘め
6.伝統的技法を基本的にしっかりと身につけ、さらにその基礎の上に日進月歩の時代状況に対応できるよう最先端の革新的技術習得にぬかりない、
7.極めて目的合理的で革新的な近代的技術者であると同時に、
8.多方面にわたる教養人であり、
9.最終的に戦後人々が失った最後の狩猟民の本能を宿した「野生の人間」、つまりニヒルな「野獣」である。

こんな盗人界の最高峰に位置するものが残した獄中日記は、1988~1993年の6年間に書き残されたものである。この日記、一読すると、時折りおっと思わせる記述こそあるが、淡白で味気ないものである。その理由は、しごく単純。この獄中日記が看守に見られるということを前提に書かれているからである。

本書において、この一見何の変哲のない獄中日記の解読作業を進め、意味を与えるのが、猿(ましら)の儀(ぎ)ちゃん。もう一人の義賊である。「蛇の道は蛇」とは、よく言ったものである。この猿の儀ちゃんの手にかかると、ただの獄中日記が、最高の犯罪手口の教科書へと変貌する。おそらく自分自身が最後の義賊であることを自覚していた弥三郎は、その獄中日記にさまざまな犯罪のナレッジを盛り込んでいたのである。

例えば獄中日記にこんな記述がある。「勤労を尊ぶ心を養い、求めることを常とするな」。一見すると罪を反省し、シャバに出たらまともな職を見つけることの決意のように思える。しかし、これを猿の儀ちゃんが読み解くとこうなる。「シャバにでたらしっかりと自分本来の勤め=盗人働きに専念するが、それも過分に良くを出さずにやることが大事だ」。義賊たるものの信念の強さを知るものにとって、職業人としての勤労の定義は、決して変わらないということなのである。

警察の目をくらませるために、あえて反対の事実が記されているという厄介なケースもある。獄中日記には、「賊自身が雨の為にずぶぬれになるようでならない身のこなしと準備周到の上にあって、賊自身にとって、この雨と風は味方となって終うのである。」などと書かれている。しかし実際は、雨の日には絶対にやらないというのが鉄則であるそうだ。足跡がつくうえに、滑るからである。犯罪者の行動は裏の論理によって貫かれているから、嘘も本当も同業者には簡単に見抜くことができる。こんなところに、弥三郎の義賊を貫きとおすという決意表明が隠されていたのだ。

また、彼ら義賊が、現代の犯罪者をどのように見ているかということに関する言及も興味深い。とにかく最近の泥棒には、作法がないという。彼らに言わせれば、人を傷つけたり殺したりするのは情けないこと。並みの犯罪者と、義賊との違いは、ある時点で異常ともいえる精神力で冷静さを取り戻し「ぐっとこらえる自分を持っているか否か」というところなのである。

本書の目的は、あくまでも犯罪の行動生態を理論立てて、今後の犯罪を防止するというところにある。しかし、その出来の良さは、ある種の諸刃の剣にもなりうる。これから犯罪を実行しようとするものにとっては、格好の教科書になってしまうからだ。その点、本書においても伏字が頻出していたり、猿の儀ちゃんが「ちょっと待て、出すのは危ない」などとブレーキをかけたりと忙しい。それが、全編を通してすれすれのところを歩いているのだ、という緊張感を生み出している。

最後の義賊と呼ばれた弥三郎が死去し、猿の儀ちゃんも引退、裏社会から完全に賊は消えようとしている。これが意味するのは、果たして何なのか。裏社会と表社会とは鏡のような関係にある。筋金入りの悪が消えたことは、表社会から芯の通った正義も消えたということを意味するのかもしれない。誰しもが、どのようなきっかけで、正義から悪へと変貌するのかわからない混沌とした世界へと。そう考えると、彼らの消滅は、はたして喜ぶべきことなのか、憂うべきことなのか。

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