オルタナティブ・ブログ > シロクマ日報 >

決して最先端ではない、けれど日常生活で人びとの役に立っているIT技術を探していきます。

成長なんていらない

»

僕らは常に、「成長」を求められます。跳び箱5段が跳べたら、次は6段。英検2級に受かったら、次は1級。係長になったら、次は課長。昨日よりも今日、今日よりも明日の方が「成長」していることが当然であり、それを目指さなければなりません。

しかし、海の向こうでは「成長」ではなく「変化」を掲げた候補者が大統領に選ばれました。あらゆるものが変化するこの時代、あえて過激なことを言わせてもらえれば、成長など追い求めなくても良いのではないでしょうか?むしろ古い尺度で比較することに満足してしまっては、新しい環境に適応することが疎かになってしまうのではないでしょうか?

以前『銃・病原菌・鉄 』という本が話題になったことがありました。お読みになった方も多いと思いますが、その中にこんな一節が登場します:

われわれが食べるエンドウの種子(豆の部分)はサヤに包まれたままだが、野生のエンドウは種子をサヤからはじけさせる。エンドウは、種子をサヤからはじけさせて地面に放つ遺伝子を持っているのだが、この遺伝子に突然変異を起こした個体のサヤははじけない。野生の状態では、はじけない個体の種子はサヤのなかでしなびてしまい、はじける個体だけが遺伝子を残せる。しかし、この自然の摂理とは反対に、人間の手に入るのは、はじけることなくサヤの中に種子を宿している個体だけである。こうした突然変異を起こした個体を人間が持ち帰るようになって、それが栽培種の原種として選択されたというわけである。

つまり野生の状態では致命的であった欠点が、人間という新しい要素が加わった環境下では生存にプラスとなる利点になり、結果として「劣っていた」エンドウたちの子孫が今日世界中に広まったわけですね。

仮にエンドウに遺志があって、人間と同じように行動できる絵本のような世界だったとしたら。エンドウたちはサヤのはじける力を競い合い、昨日よりも今日、今日よりも明日、豆を遠くにとばせるようになるのを目指していたことでしょう。ところが、人間の進出という「変化」の時代。サヤをより強くはじけさせる、という古い尺度で成長することに固執していたエンドウは衰退し、まったく逆の尺度を採用できたエンドウはグローバル展開にまで成功したとさ……というのが話の終わりになるでしょうか(パート2では人類滅亡後が舞台になり、こんどは人間に頼るだけだったエンドウの方が衰退した、という話になるかもしれませんが)。

無論、現実はこんな分かりやすい話ではありませんし、変化の後には新しい方向性での工夫が必要になります(より人間に選ばれるように、サヤや種子を大きくするとか)。しかし成長という概念には「良いこと」という価値判断が内包されてしまっており、いったん目指してしまうとなかなか逆方向には進めません。再び過激な発言を許していただければ、自分を変えられない、変えるのが恐い人間ほど「成長」に固執するように思います。昨日の尺度で測って、進んでいるのを見て安心することをあえて封印し、まったく新しい姿に変わることを考えてみても良いのではないでしょうか。

< 追記 >

まったくの余談ですが、毎年恒例「今年の漢字」が「変」に決定したとのこと:

今年の漢字は「変」 首相交代や経済環境の急変を反映 (NIKKEI NET)

「社会がおかしくなってしまった」という意味での「変」は今年限りにしてもらいたいものですが、「チェンジ」という意味での「変」は来年も続いて欲しいところです。

Comment(4)