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100年前の帯広には凄いイノベーターがいた。そのDNAは現代も受け継がれている

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一昨日、帯広(十勝地方)から帰ってきました。

この帯広、日照時間も日本でトップクラス。肥沃な土地で、食材も豊富ですし、非常に豊かな土地であり、街全体もあたかも欧州の地方都市のように活気がありました。

しかし、帯広に行くことが決まった時から、ずっと疑問に思っていたことがありました。

どうしてこんな極寒の地に、これほどまでに豊かな土地が生まれたのか?

  

調べているうちに、依田勉三という人がいたことが分かりました。

依田勉三は伊豆出身で幕末の生まれ。

伊豆での農業に限界を感じ、当時は未開の地だった北海道を開拓しようという志を持ちました。そして仲間を募って「晩成社」を結成、十勝に乗り込みました。

しかしそれは苦難の連続でした。下記は依田勉三のWikipediaからの抜粋です。

1883年
13戸27人、帯広到着。一行を鹿猟の野火が、そしてイナゴの大群が襲う。アワを蒔き付けするも天候不順、ウサギ・ネズミ・鳥の被害で殆ど収穫できず

1884年
開墾は遅々として進まず開拓団の間に絶望が広まる。勉三は米一年分を大津に貯蔵したが帯広への輸送が困難。食糧不足打開のため当縁郡当縁村生花苗に主畜農業を経営

1885年
農馬を導入し羊・豚を飼育しハム製造を目指す。馬鈴薯澱粉を研究。農耕の機械化を試みる。何れも上手く行かず、当初移民は3戸に減少

1892年
状況が漸く好転。食糧は足り、小豆・大豆の収穫も目処がつくように。晩成社の事業拡大。函館に牛肉店開業、当別村に畜産会社。帯広に木工場、然別村に牧場

 当初目標:15年で10,000町歩開墾
 現実:10年で30町歩開墾

1897年
社有地の一部を宅地として開放。多くの移民が殺到。

1902年
バター工場、缶詰工場、練乳工場を創業。何れも現在の十勝・帯広に根付く産業に。しかし当時としては先進的過ぎて、晩成社の経営は上手く行かなかった。

1925年
勉三、中風症に倒れ12月12日享年73で他界。死の間際「晩成社には何も残らん。しかし、十勝野には…」と述懐したという。

1932年
晩成社解散。

1933年
帯広、北海道で7番目に市制を施行

 

日本国内の酪農飼育頭数を見ると、依田勉三が存命中だった1925年までは10万頭前後で推移していましたが、1930年頃から急速に立ち上がり始め、1960年には100万頭、1970年には200万頭になっています。

豊かな十勝の地は、志半ばにして倒れたイノベーターである依田勉三が礎を作ったと言っても過言ではないでしょう。

 

実は今、十勝では「十勝マンゴー」という名前で真冬にマンゴーを作っています。→十勝毎日新聞の記事

「厳寒の真冬の十勝で、なぜマンゴー?」と思われるかもしれません。

これは「クリスマスに真っ赤なマンゴーを出荷したい」という宮崎県の生産者の願いを聞き、マンゴーを12月に出荷するのに必要な条件が北海道で可能であったことから有志が英知を結集、十勝の温泉水と夏まで溶け残る雪を活用して、日本一の糖度を誇るマンゴーの生産に成功したものです。

「マンゴーはシーズンもの」という従来の考え方を覆し、「クリスマスに美味しいマンゴーを届ける」というイノベーションを起こし、新たな顧客を創造したのですね。

 

帯広では、他にも様々な分野に挑戦を続けている方々と出会うことができました。

また帯広では意外なことに、全国の様々な地域からの人達を受け容れており、そのような方々も多方面で活躍なさっています。帯広は人材多様性(ダイバーシティ)の観点でも、あたかもシリコンバレーのようにイノベーションを生み出す素地があるのですね。

 

依田勉三のイノベータとしてのDNAは、十勝・帯広の人達の中に脈々と受け継がれていることを、今回の帯広旅行で実感しました。

 

 

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