言葉にできない
ちょっと古い放送ですが、6月3日のNHKのプロフェッショナル 仕事の流儀で、坂東玉三郎さんが次のように語っていました。
茂木さん「玉三郎さんにとって、理想の踊り、というのはどういうものなんですか?」
玉三郎さん「極論ですけれど、見ている人も、踊っている人も、踊っていた時間というものを忘れるような時間だと思います。それで何かニュアンスとか、魂とか、一瞬の喜びとかがすっと飛来して、何だったのだろう、と思えたらいいかな、と」
先日ここでご紹介した井上雄彦「最後のマンガ展」の反応についても、モーニングの29号で井上雄彦さんは以下のように語っています。
「言葉にできない」
そんな感想に正直心がふるえます。
言葉に言い表せないからこそ、
体全体で読んでもらうしかない、
空間に挑んだのは、そんなものを目指したからです。
手をつないだような気分です。
コミュニケーションとしてのアートの目指す姿が、ここにあるのではないでしょうか?
先日「「人に伝わる」とはどういうことなのか? 信長の「朽木越え」におけるシニフィアンとシニフィエ」で、記号論の観点で、シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容または記号意味)の考え方をご紹介しました。
シニフィアン(記号表現)は、玉三郎の踊りであり、井上雄彦の絵でもあり、アートの様々な表現形態でもあります。
しかし、アーティスト本人が伝えたいことは、踊りでもなければ絵でもないのでしょう。
そして、それの伝えたいことを、シニフィアン(記号表現)を通じて伝えられるのがアートであると思います。
そして究極の姿は、相手の中に、シニフィエ(記号内容または記号意味)のエッセンスだけが残り、シニフィアン(記号表現)そのものが何だったかは全く残らない、そんな世界なのでしょう。
私も写真を通じて、そのような世界を実現したいものです。