極めて危険な、空気読み過ぎ+思考停止する日本
昨年の流行語大賞にノミネートされた「KY」。
「あいつ、KYじゃん」ということを若い世代の人達が言うのを見ていると、聖徳太子が「和を以って貴しとする」と言った頃からの空気を大切にする日本人らしさは、確実に若い世代に受け継がれていると実感します。
同じく、「そんなの関係ねえ」も流行語大賞のベスト10に入りました。
流行語というのは、その時代の世相を非常に的確に反映します。
この二つに共通していることは、理屈に合わないことを押し通す場合に、極めて有効であること。
そもそも、「KY」というのは考えてみれば怖い言葉です。
何となく浮いていて気に食わない誰かがいると、「あいつ、KYじゃん」の一言で、論理な説明をすることなく、コミュニティから抹殺できます。
「そんなの関係ねえ」も同様で、まずい立場に立たされたらこの言葉で開き直ることができます。
まぁ、とは言っても、実際に小島よしおのように「そんなの関係ねぇ」と開き直る人は、滅多にいないでしょうけれど。 逆に、実社会ではこのように開き直れないというフラストレーションがあるからこそ、その気持ちを代弁してくれる「そんなの関係ねぇ」が流行語になったのかもしれません。
このような発言をすると、
「えー、半分シャレなんだし、そこまで厳しく言うのは無粋じゃない?」
「もしかして、KY?」
って言われるかもしれません。でもとっても気になります。
気になっていたところで、先日、NBonlineの津本陽さんのインタビュー記事「今なぜ竜馬なのか――富国ということ 津本陽著『商人龍馬』」を読んで、気になっていた理由が明確になったように思いました。
---(以下、引用)---
....。実は、最近の日本は少し変になってきた気がするのです。アフガニスタンの治安維持活動の一環として自衛隊をインド洋に派遣することなどは、その表れではないかと思います。
自衛隊による洋上給油そのことの良否を言っているのではありません。決め方が不透明でなし崩し的でしょう。日本の歴史を振り返って、このような決め方をする時が一番恐ろしいと申し上げたいのです。
近代軍備を整えたロシア軍に対して、鉄砲と手榴弾で立ち向かい全滅したノモンハン事件があったでしょう。.......。1000台以上の戦車が前にも横にも砲身をこちらに向けている中を、士官が「行け」と怒鳴って兵隊を突進させたわけです。そこが屠殺場と化すのは分かっているのにですよ。
しかも、あんな永久凍土の土地を占領しても何にもなりません。にもかかわらず軍隊のメンツだけで信じられない戦争に日本を引き込んでしまった。
....。この国をどう発展させるか、そのためには何をしなければならないかという最も大切なことを忘れて、目の前にあることだけにとらわれて行動する。しかも、それがつまらないメンツが動機になっている。
今の日本も、同じような道を進み始めたのではないかと危惧するのです。明治維新も竜馬がいなければどうなっていたか。竜馬の考えと行動をもう一度、日本人が見直すべきなのではないかと思ったのです。
---(以上、引用)---
津本さんが指摘されているように、あの頃も、ノモンハン、ガダルカナル、インパール、他の例を挙げるまでもなく、軍部では、論理ではなくその場の空気でモノゴトが決まっていきました。
そして世間では、戦争に向かう社会全体の空気に逆らう人に対して、当時は「KY」ならぬ「非国民」というレッテルを貼りました。
戦争末期には日本全体に厭戦気分が漂い「戦争は真っ平」という空気がありましたが、戦争の当初は日本全体が緒戦の戦勝に酔った空気が漂い、日本全体がズルズルと泥沼の中に入ってしまったこともまた、我々は認識すべきではないでしょうか?
論理が排除され、思考停止状態になり、空気でモノゴトが決まっていく日本。
これ、極めて危険です。
先日のエントリー「幻想の省エネ大国・日本?」でも述べた通り、最近、日本でもその兆候が見られます。
一旦、日本全体が空気だけでモノゴトが決まってしまうモードになると、論理的な議論が極めて難しくなります。
そうなる前に、思考停止状態に陥りかけている社会に対して、私達一人一人が自分の頭で考え、本来何をすべきなのかを問いかけていく必要があります。
常に論理的である必要は必ずしもありません。
しかし必要な時は、「あなた、KY?」と言われても、論理を通し、逆に「そんなの関係ねえ」と開き直るべきなのかもしれません。
社会は、他の誰かが変えてくれるのではありません。
社会を変えられるのは、他の誰でもなく、自分達一人一人です。自分が変わらない限り、社会は変わらないのですから。