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ブログを読むと、自分の頭で考えなくなる

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タイトルは若干、というか完全に釣りです。悪しからず。

僕はブログを書く前に、今から書くテーマについて他のブロガーが何を書いているか、事前に調べることはしません。「既に語り尽くされているネタだと書く気が失せる」という理由もあるのですが、もっと大きな理由は、事前に読むとその主張に引っ張られてしまうから。本当はもっと違ったニュアンスだった思考回路が、読んだブログの思考回路に合わせて変形してしまい、もう二度とその形以外に整形できなくなるような感覚を覚えるからです。

例えばごく簡単な例として、地元で評判のケーキを紹介するとしましょう。そのケーキを食べると、他のお店のケーキとは違う何かを感じる。それはクリームの触感かもしれないし、甘さの絶妙なバランスかもしれないし、もしかしたら上に乗っているイチゴがブランド品なのかもしれない。それを自分の言葉で整理し、文章にする前に、他の人が「あのケーキのポイントはデコレーションにある。見た目が味を高めているのだ」と書いているのを読んでしまったら、「ああ、そうだったかもしれないな」と思考のベースが「デコレーションの素晴らしさ」になってしまいます。もちろん書かれていることに常に同意するとは限りませんし、逆に「いや違う、デコレーションはそれほど重要ではない」と真っ向から反論することもあるでしょう。しかしその場合でも、議論が「デコレーション」という軸に縛られてしまうことになり、実は自分が本当に感じていた素晴らしさから目を逸らす結果になってしまうかもしれません。

もちろん、他人とのディスカッションで議論が洗練されるということはあります。僕も自分のエントリが書き終わってからは、同じネタやテーマを扱っているエントリを一通り読んで、次回同じようなエントリを書く際のインプットにしています。しかしここで問題にしたいのは、自分が本当に感じていたことを心に保持できるかどうか。最初に自分の考えをまとめる(可能であればブログのように文章化する)ようにしないと、特に新聞と違って主義主張がはっきり書かれる傾向があるブログにおいては、先に読んだ文章に考えを固定化されてしまう恐れがあるのではないでしょうか。

さらに恐いのは、他人に影響を受けたことすら気づかない場合です。最近『凡才の集団は孤高の天才に勝る』という本を読んだのですが、その中でこんな実験が紹介されています:

1931年、ミシガン大学の心理学者、ノーマン・マイアーは、ドゥンカーの洞察問題を再考することにした。

洞察の瞬間に何が起こっているかを従来より詳しく分析するために、マイアーはある特定の問題に焦点を絞った。まず、大きな部屋に、長いポール、締め具、ペンチ、延長コード、テーブル、椅子などを置き、2本のロープを天井から吊るした。ロープは床に届くほどの長さで、一本は壁のすぐ近く、もう一本は部屋の中央に吊った。2本の間隔は、片方のロープを掴み、もう一方のロープのほうに歩いていっても、そのロープは掴めない程度の距離とした。そして個々の被験者に、2本のロープを何らかの方法で結ぶようにと指示した。被験者たちがまず試してみたのは、一方のロープの端を握り、もう一方のロープのほうに向かうという行動だったは、すぐにこれでは届かないことに気づいた。

(中略)

マイアーは、この解決法を10分以内に思いつかなかった被験者(全体の60パーセント)に何気ないヒントを与えた。椅子から立ち上がると、窓の方に歩きだし、その途中で、一方のロープに「たまたま」触った振りをして、そのロープを揺らしたのだ。すると1分以内に、さらに40パーセントの被験者に突然の閃きが走り、第4の解決法を思いついた。

実験終了後、どうしてこの解決法が浮かんだのかを被験者に尋ねると、マイアーがロープに「たまたま」触れたことがきっかけだったと自覚していたのは、わずか1名だった。残る全員は、突然の閃きだったと答えた。「ふっと思いついたのです」。ある被験者は、アイデアが浮かんだ経緯を驚くほど事細かに説明した。「何かにぶら下がって、びゅんと川を飛び越す状況を考えました。猿が枝から枝へと渡っていくイメージです。その情景が浮かんだとたん、解決法がわかったんです」。そこでマイアーはさらに突っ込んで、自分が窓のほうに歩いていったとき、ロープが揺れたのが見えたかと尋ねてみた。すると被験者は、マイアーが部屋を横切ったことは覚えていたが、ロープが揺れたことに気づいたどうかについては、誰も覚えていなかった。

これは心理学者が「作話」と呼ぶ現象の完璧な例である。人間は、自分の行動を事実に即した形で、何の苦もなく説明することができる。被験者たちは、自分が独りで洞察を得たと信じているが、実際には何らかの「社会的出合い」が引き金となって、アイデアが浮かんだのである。

この実験では「他人の行動を目にすること」でしたが、何らかの「社会的出合い」という部分には、ネット上での出合いも含まれてくるでしょう。他人がブログ上で表明している意見を目にしたとたん、それが以前から自分が抱いていた意見のような気がしてしまい、「そうだ、僕が考えていたことはまさしくこれだ」と納得してしまう。その結果、実は甘さのバランスというポイントに気付きかけていたにもかかわらず、それ以上の考察を止めてしまうことにもつながるかもしれません。

ただこれも当然ながら、全く他人からの影響を受けていない、完全にユニークなアイデアというものは存在しないでしょう。また他人からの影響が必ずしも悪いわけではなく、上記の『凡才の集団は~』はまるまる一冊が「他人とのコラボレーションがイノベーションを生む」という主張に費やされています(関連記事)。しかし、他人の主張を鵜呑みにしてしまうのと、自分の考えを持った上で議論を発展させるのとは異なります。仮に最終的に他人の意見を受け入れるにしても、そこに自分の考えとの衝突があるか無いかで、得られるものは大きく異なってくるのではないでしょうか。

ということで結論ですが、もちろん「ブログを読まない方が良い」と言いたいのではありません。逆に様々な主義主張が表明され、ぶつかり合うブログという世界は、既存メディアにはないコラボレーションやクリエイティブなアイデアが発生し得る場所だと思います。ただし何か意見を得ようと思ったときに、まっさきにブログに向かってしまっては、せっかくのオリジナルな発想が生まれるチャンスを潰してしまうことになるのではないでしょうか。一通りのデータを集めたら、少しだけ時間を取って、それが何を意味するのか自分で考えてみる。あるいはネットに書き込まないまでも、考えを文章にしてまとめてみる。それが全く新しいアイデアへの第一歩となるかもしれません。

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