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「英語は英語で教えるべきか」を問う前に

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昨日各メディアが取り上げていたのでご存知の方も多いと思いますが、文部科学省が学習指導要領の改訂案の中で、「英語の授業は英語で行うのが基本」という方針を示しているそうです:

「高校英語、英語で教えるべし」学習指導要領の改訂案 (asahi.com)
英語で授業…「正直、無理」 高いハードルに先生困った (asahi.com)

「英語の授業は英語で行うことを基本に」。22日公表された、13年度からの高校学習指導要領改訂案でこんな方針が示された。文科省は「難しい内容は日本語でもいい」「生徒の理解に応じて配慮を」と言うが、それでもハードルは高い。学校現場でうまく生かせるのだろうか。

今回示されたのはあくまでも「案」であり、しかも「行うのが『基本』」とされているわけですから、それほど大騒ぎすることではないかもしれません。しかし「生徒がついていけるのか」「そもそも先生に英語で教える力があるのか」などといった懸念を誰もが抱くことでしょう。しかも「教員が本当に対応できるのかという点については、(文科省の)内部でほとんど議論にならなかった」そうですから、実効性の面でかなり疑問がある方針と言わざるを得ません。今後大きな混乱を招くことは必至ではないでしょうか。

そもそも現代の日本人は、どこまで英語を使えるようになっておくべきなのか?という根本的な議論は置いておくとして。個人的な意見を言わせていただければ、「授業の内容」をある程度定めておくのは必要だとしても、「授業の方法」まで一律に統制してしまうのはどうかと思います。確かに全てを英語で行ってしまう方式の方が望ましいという「習うより慣れろ」的な生徒もいるでしょうが、実践より先に文法を納得できる形で教えて欲しいという理論派の生徒もいるはずです。それは先生にとっても同じ話で、何より会話が得意という方もいれば、ユニークな方法で文法を教えるという方もいらっしゃるでしょう。「とにかく全て英語が望ましい」では、利益と同じぐらい弊害も生まれると思います。

実際、僕自身は説明まで英語で行われる授業というものを、留学するまで受けたことはありませんでした。しかし説明が日本語で行われる授業だからといって、英語力が身につかなかったとは思いません。ただしそれは「説明は日本語でしてもらった方が僕にとっては効果的なので、日本語の授業を選ぶ」などといった判断を自ら下したわけではなく、単に英語で行われる授業が用意されていなかっただけの話です。従って僕は非効率な方法での勉強を強いられてきたかもしれないわけで、それの方が問題ではないでしょうか。つまり生徒一人ひとりにとって望ましい形で、最適な学習法が選択できるようにすることが目指すべき理想像だと思います。

いや、生徒毎に授業内容をカスタマイズするなど物理的に不可能だと思われる方はクリステンセンの近著『教育×破壊的イノベーション』を読んでみることをお勧めします。簡単に言ってしまえば、彼はICT技術を利用することで生徒に合った授業が提供されるようにしようと主張しているのですが、現在の状況を考えればさほど荒唐無稽な話ではありません――極端な話、解説が英語で良いのなら「Skype で海外にいる英語教師に格安で授業をお願いする」といった可能性もあるでしょう。少なくとも文科省がすべきなのは様々な「方法」を提供できるように学校をバックアップすることで、一律化してしまうことではないと考えます。

そう考えると、この話は何も英語に限った話ではありません。数学や歴史、場合によっては音楽などの実技教科も、生徒一人ひとりに合った指導方法をということになっていくと思います。その意味で、今回の議論が良い意味で大きく広がっていくことを期待しています。

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