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権威のマーケティング

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既に皆さんご存知のことと思いますが、今年のノーベル各賞に日本人(米国籍を取得されている方もいらっしゃるので、正確には「日本出身者」)4名が選ばれました:

ノーベル物理学賞、素粒子研究の日本人3氏に (asahi.com)
ノーベル化学賞に下村脩さん 蛍光たんぱく質を発見 (asahi.com)

一度に複数の日本人受賞者が誕生!ということで、各メディアも祝賀ムード。「日本も捨てたものではない」「自信を取り戻すきっかけになる」といった声が出ています。例えば今日の朝日新聞・天声人語欄などもその典型でしょう:

おめでたい話題は筆も軽い。ノーベル物理学賞が、素粒子の権威、南部陽一郎さん(87)と、小林誠さん(64)、益川敏英さん(68)の名大同窓コンビに贈られる。さらに下村脩さん(80)の化学賞も決まった。日本の研究水準が改めて世界に認められたと喜びたい

(中略)

宇宙の謎を解くカギが素粒子に宿り、生命の仕組みを明かす道具がクラゲに眠る。暮らしから遠い題材を生涯の友とした無類の頭脳のお陰で、こうして知的ロマンにしばし浸れる。優れた師匠がそこにいるのに昨今の理科離れ。もったいなさすぎる。

あのノーベル賞に選ばれるなんて凄いじゃないか。理科離れが叫ばれる日本で、世界に認められるような業績が誕生して嬉しい――個人的にも同じような感想を抱いていたのですが、一方でこんな見方もあるようです:

なぜ「大してうれしくない」か (白のカピバラの逆極限 S144-3)

実は受賞者の一人、京都産業大学の益川敏英氏が、NHKの取材に対し「大してうれしくない」とコメントされていたそうです。理由が上記の記事で解説されていますので、ぜひ全文に目を通してみていただきたいのですが、最後のポイントだけ引用しておきたいと思います:

つまりだ。これは三人ともいえるが彼らはノーベル賞が来たことによって自分たちの研究が評価されたことが分かるレベルの人々ではないのだ。それどころか、ノーベル賞をとっていないことによってノーベル賞を物理学会の最高の賞と呼ぶには躊躇するよね、と思わせるほどなのである。

恥ずかしながら、僕の頭の中には「ノーベル賞に選ばれる=世界に認められる」という公式がしっかりと根付いていました。しかし、

「南部先生にノーベル賞が出せるとはノーベル賞も箔がついたなあ。」

と考えることもできるのだと。いずれにしても受賞者の方々の業績が損なわれるものではありませんが、ノーベル賞の権威を何も考えずに受け入れていた身としては、目から鱗が落ちる思いでした。

考えてみれば、あらゆるコンテストやランキングは恣意性をまぬがれないものです。ノーベル賞自身、過去には人種差別や奇妙な選考が行われたことがあったそうですが、スポーツの試合でもない限り「客観的に見て明らかな優劣」をつけるのは難しいでしょう。しかし「ノーベル賞を受賞するような研究は素晴らしい」「アカデミー賞を取った映画は凄い」「二科展に選ばれるアートは優れている」などというように、優劣の基準として使われるコンテストがあるのは、それが権威のマーケティングに成功したからなのかもしれません。

「ノーベル賞を受賞する日本人がいて良かった。これで子供の理科離れがくいとめられる」――結果としてそうなれば、確かにそれはそれで良いことです。しかし無意識のうちに「○○賞を受賞しないから日本の科学技術はダメだ」と考えてしまっているのだとしたら、本末転倒な話ではないでしょうか。映画の分野では、アカデミー賞の権威への反発が優れた映画/映画祭を生み出してきました。「日本人が受賞した!素晴らしい!」と騒いでノーベル賞の権威付けに協力するよりも、「受賞して当然だ、他にもこんな素晴らしい研究がある」と紹介していく方がカッコいいよなぁ……などと感じてしまった次第です。

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