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消費者がコンテンツを作る

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休日を利用して『思考の整理学』を読んでいたら、ふとこんな箇所が気になりました:

『平家物語』はもともと語られた。くりかえしくりかえし語られている間に、表現が純化されたのであろう。たいへんこみ入った筋であるにもかかわらず、整然として頭に入ってくる。作者はいかにも頭脳明晰であるという印象を与えるが、これはひとりの作者の手柄ではなく、長く語ってきた琵琶法師の集団的功績ともいうべきものであろう。

『平家物語』と言えば、有名な「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」の出だしが頭に浮かびますよね。確かに文章としてだけでなく、音やテンポとしても美しいと感じる一節です。それが誰か一人の作者の手によるものではなく(同じく「集団的功績」の例である Wikipedia では、作者の可能性がある人物として複数の名前が挙げられていますが)、琵琶法師という集団が繰り返し語り継ぐことで成立した、というのは興味深い話です。

平家物語に限らず、日本や世界の古典文学にはこうした「語り継がれる中で洗練されていった作品」というものがあるようです。かつてはコピー機もコンピュータなどといった「オリジナルを忠実に記録する道具」がなかったのですから、人から人へと伝承されていく中で、次第に変化していったのでしょう。その変化は「伝言ゲーム」で生じるような単なるミスの場合もあれば、琵琶法師のケースのように、観客の前で披露される中で表現の取捨選択が行われる、という場合もあったはずです。となれば、コンテンツの成立には制作者だけが関わっているのではなく、消費者も重要な役割を果たしていると考えられるように思います。

僕は専門家ではないので感覚論になってしまいますが、最近の著作権をめぐる議論を見ていると、制作者の側が頑なにコンテンツを囲い込もうとしているように感じられます。確かにそこから何らかの利益を得たいという気持ちは分かるのですが、あまりに硬直化された制度は、逆にコンテンツが洗練される機会を奪ってしまうことにならないのでしょうか。「いや、オレが生み出した状態が最高だ。将来も語り継がれるかどうかなんてどうでもいい、いま利益が欲しい」というのであれば話は別ですが。

ウェブユーザビリティの法則』にこんな一節があります:

マルクス兄弟の映画が、どうしてあんなに素晴らしいのかをお教えしよう。彼らは、撮影を始める前に巡業に出かけ、映画の中のいろいろなシーンを演じて、1日に5回のショーを行う中で絶えず改良を加え、どの台詞が一番笑いをとったかに注意を払ったから面白いのだ。台詞が確定したあとでも、改良できるところがないかを吟味するため、グルーチョはちょっとした変更を試してみるように主張したものだという。

現代のようなデジタル技術がある時代だったら、マルクス兄弟は映画を撮り終わった後、公開が始まった後も変更を加えようとしたのではないでしょうか。笑い、という観客からのフィードバックを基に。

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