「無料コンテンツ」はユーザビリティの犠牲で成り立つ?
まずはこの2つの記事を見て下さい:
■ 携帯フィルタリング、総務省が“過剰規制”に「待った」 (ITmedia News)
■ エッ? 携帯有害サイトの閲覧制限規制に総務省が「待った」 (MSN産経ニュース)
総務省が携帯各社によるフィルタリングサービスの「行き過ぎ」に待ったをかける方針を固めた、というニュース。このニュース自体も興味深いのですが、注目して欲しいのは記事の方。読んでいただければ分かると思いますが、この2つはまったく同じ記事です(ITmedia が産経新聞の記事を転載)。しかし ITmedia が1ページに掲載しているのに対して、MSN産経ニュースでは2ページに分割して掲載しています。
記事本体(タイトルやヘッダ・フッタ情報を除く)の長さは、スペースを含めないで884文字しかありません。スクロールをしなければ全体が表示できないものの、ITmedia のように1ページにまとめても特に読みにくいということはないでしょう。逆にこの短さの記事を2ページに分けてしまったら、いちいちクリックしてページを送るのが煩わしいと感じる読者がいるかもしれません。なぜMSN産経ニュースはこの体裁を取ったのでしょうか?
昨日のエントリで、ニコラス・カーの
As long as algorithms determine the distribution of profits, they will also determine what gets published.
富の配分を決めるのがアルゴリズムである以上、何がニュースとして世に出るかを決めるのもアルゴリズムなのだ。
という言葉を紹介しました。その結果として「SEOする新聞記者」が登場しつつあることを述べているのですが、「短い記事でも2ページに分ける」も、ネット時代のアルゴリズム=富の配分ルールがもたらした結果かもしれません。つまり2ページに分けることによって、それだけ広告を掲載できるスペースが増すことができるだけでなく、広告主にアピールするのに必要な数値であるページビューを増すことも同時に可能なわけですよね。紙の時代とは異なり、ページを増やすのにかかるコストはほぼゼロ。ならば2ページにできる記事を1ページに収めてしまうのは、経営の観点からすれば愚かな行為でしかありません。
ネットの時代になり、あらゆる情報が無料になりつつあります。しかし情報をつくり、配信するコストは消えてはいないわけで、ではそのコストが何で補填されているのか?を意識しなければいけないのではないでしょうか。上記の例で言えば、新聞の時代であれば「情報を提供するコスト」には読者がお金を出していたわけで(過去においても広告は重要な収入源でしたが)、読者の利便性に一定の注意が払われていました。しかしネットの時代、コストを負担するのは広告主だけになり、広告主の便宜を図ることが最優先されるようになりつつある――つまり読者のユーザビリティを犠牲にして「無料コンテンツ」が実現されている、と考えることができるように思います。
もちろんどちらのモデルが優れている、こちらのモデルを採用すべきだ、などと言うつもりはありません。しかし前回のエントリで指摘した状況(新聞記者がSEOに走り、多くの人々を引きつけやすい下世話な話題ばかり集めてきたり、駅売りスポーツ紙的な「釣れる見出し」を付けるなど――そう言えば上記の例でも、ITmedia が「“過剰”規制に待った」という無難なタイトルを付けているのに対し、MSN産経ニュースでは「エッ?~閲覧制限規制に待った」というインパクトのあるタイトルが付けられています)も生まれる可能性があるなど、「無料」というのは読者にとって必ずしも最適な状況ではない、ということを認識する必要があるのではないでしょうか。
まぁ過度にあこぎなこと、例えば2ページではなく3ページ、4ページに分割するなどということをすれば、今度は読者からそっぽを向かれてしまうでしょう。従ってギリギリの利便性は守られるはず、と考えることもできますが、いずれにせよ読者はお金の代わりに何かを代償にしなければなりません。場合によっては、「私はお金を払うからユーザビリティに配慮した形で配信してくれ」などという読者のために、「購読料を払えば広告が消える」というどっかで聞いたようなモデルも出てくるのでは……と想像しています。