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夏目房之介の「で?」

花園大集中講義レジュメ

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2010.8.2 花園大学集中講義 「身体」という主題をめぐってマンガ表現の何が見えてくるか? レジュメ

夏目房之介 前日講演「忍者・魔球・格闘技 戦後少年マンガの身体像」より敷衍

1)不死身の身体 マンガ的な「不死身の身体」は、日本だけの現象ではない

DVD上映 ディズニー「ミッキーマウス」『蒸気船ウィリー』(1928年 トーキー)「フィリックス・ザ・キャット(Felix the Cat)」『うらないで大さわぎ(フィリックスの占い師)』(1928年)(1919年からアニメ 同年新聞連載マンガ)

[1]  首つり途中で家の梁ごと街じゅうをなぎ倒して走る身体 19世紀前半のスラップスティックな表現

ルドルフ・テプフェール(1799~1846 スイス)『ムッシュ・ヴィユ・ボア』(1827年手稿→1837年単行本刊行)

カリカチュア(カートゥーン)ではなく、近代マンガ(コミック・ストリップ、BD)の「父」と呼ばれる

[2] 爆発でも死なない、パンにして焼かれても死なない身体 米コミック・ストリップに影響

ウィルヘルム・ブッシュ(1832~1908 ドイツ)『マックスとモーリッツ』(1865年)詩とマンガ

明治期に日本で出版(日本語のローマ字版、絵は木版で再現)羅馬字会1887M20~88年刊(1) 占領期にも翻訳版

[3]轢断される身体 ウィンザー・マッケイ『レアビット狂の夢(Dream of the Rarebit Fiend)』(「ニューヨーク・イブニング・テレグラム」紙1904~11年「ニューヨーク・ヘラルド」紙1911~13年連載)写実的な造形描写→夢落ち?

●神話・伝説・昔話の類にも同様の「身体」は登場する→連続画像として視覚化したのが「マンガ」 叙述と画像

→1)神話的な身体は死なない(説話伝承) 2)連続する画像(コマ)によって分節(マンガ史)

→3)物語性が高度化するとシリアス度が高まり、人物描写のリアリティの獲得とともに違和感が生じる?→スラプスティックな意外性の「笑い」 なぜ、マンガ(あるいは初期映画~マンガ映画、スラップスティック映画)において「不死身」が可能なのか?→「それがマンガだから」 同義反復の答え →では「マンガ」とは何か?

2)戦前日本マンガ

ドロン忍術と巻物(魔法的超能力)→講談~立川(たつかわ)文庫~講談社の系譜=説話伝承の側面

戦前マンガ的不死身の身体 田河水泡『神州櫻之助』(1933(S8)年)(2)[4] →マンガ(表現)史的な側面

1)絵としての原初的性格 二次元平面に描かれた線の自在さ(空間の見かけ)

2)同一人物を連続させる表現(コマ)による時間化された画像分節のナンセンス

3)児童向けメディアとしてのマンガの奔放さとして許容された側面(挿絵小説などのリアリティの水準と異なる

「少年倶楽部」1933(S8)10月号 小説では(主要人物以外は)死ぬ

●上記1)に関する参照 身体図像表現の両極(二項)

A)「記号的」「デフォルメ」→社会的に共有される類型化された画像としての背景と人物像の統合配置

B)「リアリズム」「写実」→場合により数学的遠近法/物理自然空間内に、視覚像に類似した造形の人物を配する

 B)はとくに欧州で歴史的に成立し基準化した。A)は伝統図像→子供向け図像の特徴とされる

 A)には、伝統図像の宗教的象徴表現も含まれ、マンガにも継承されている

3)戦時下から戦後へ 戦前・戦中~戦後マンガの「身体」をめぐる議論

●大塚英志「傷つき死にゆく身体」 ディズニー的な「記号的身体」(A)が手塚の戦中体験によって「傷つき死にゆく身体」を獲得し、「内面」の発見に至る→「リアリズム」と記号表現の両立(A/B)→戦後マンガの成立  [5] 手塚治虫『勝利の日まで』戦時中の作品の「傷つく身体」 〈つまり、手塚はここで記号の集積に過ぎない、非リアリズム的手法で描かれたキャラクターに、撃たれれば血を流す生身の肉体を与えているのである。/ぼくはこの一コマこそが、手塚まんがの、そして「戦後まんが」の発生の瞬間だと考える。[]のらくろ的な、ミッキーマウス的な非リアリズムで描かれたキャラクターに、リアルに傷つき、死にゆく身体を与えた瞬間、手塚のまんがは、戦前・戦時下のまんがから決定的な変容を遂げたのである。〉大塚英志(3) 〈手塚は「まんが」に「小説」を統合することで、「心の記録」すなわち「内面」を「記録」する自然主義的「まんが」を目指そうとしているように思える。事実、手塚は戦後の作品でディズニー的の二足歩行動物キャラクターに「心」を与えるという設定を好んで用いている。こういったまんがの自然主義化は、最終的には萩尾望都から二四年組の内面性のまんが表現は再び文学に還流していくことにつながっているのは言うまでもない。〉大塚(4)  人生の一回性が前提の物語→「死」を意識する「心」=「内面」の成立→近代文学における「内面の発見」的発展史への還元→手塚治虫=戦後マンガの起源(映画的マンガ手法の問題)

宮本大人『のらくろ』「傷つく身体」先行の指摘  [6~7]  「現実的」な戦争描写→それまであった敵身体の「死」描写の隠ぺい→傷つくのらくろ→人生の一回性の意識 〈この作品[のらくろ]は、「死」の危機を経て、「老い」始める存在を、子供向け物語漫画の中に導入してしまっている。〉〈全体を通して見ると、『のらくろ』という作品が、死にうる身体と後戻りのきかない時間という、きわめて重要なモチーフを、子供向け物語漫画の中に導入していることが分かる。[]そもそも『のらくろ』と手塚を、「発展史」的な前後関係においてのみ捉えようとすることの、限界に気付かされることになる。〉宮本大人(5) 手塚起源史観、近代文学史的枠組みへの疑義 歴史の断絶と連続

●「児童読物改善ニ関スル内務省指示要綱」1938(S13)年 [3]的荒唐無稽の抑圧、科学自然観察啓蒙の推進

一、教訓的タラズシテ教育的タルコト[]

 一、仮作物語ヲ制限スルコト[]科学的知識ヲ啓発スル芸術作品ヲ取上グルコト[]

 一、漫画ノ量ヲ減ズルコト[]

 一、事変記事ノ扱ヒ方ハ、単ニ戦争美談ノミナラズ、例ヘバ「支那の子供は如何なる遊びをするか」[]等支那ノ子供ノ生活ニ関スルモノ[]等子供ノ関心ヲ対象トナルベキモノヲ取上ゲ[]支那兵ヲ非常識ニ戯画化シ、[]侮蔑スル[]言葉ヲ使用スルコトハ一切排スルコト(6) 生活、科学の推奨→戦後復活する生活マンガ、SFマンガへの連続性 講談社など大手、赤本大手中村書店などの路線変更 赤本など周縁出版流通の衰微

4)戦後少年マンガの展開

GHQの表現規制~占領終結と武道マンガの復活 50年代 

『サザエさん』(1946~74)など生活愉快マンガ、『ふしぎな国のプッチャー』(1946~49)、手塚などSF未来物、『バット君』(1948~49)など明朗野球マンガから、福井英一『イガグリくん』(1952~54)などへ 〈GHQは、軍国主義につながるとして当初、武士道など封建的要素の表現に目をひからせた。歌舞伎の忠義物、仇討ち物も禁止され、具体的に禁止されなくてもチャンバラ物や英雄的戦記物などは、占領初期の時代的雰囲気のなかでは抑圧されていたのである。が、徐々に映画や子どもマンガなどの世界で時代劇が復活していく。〉夏目房之介(7) 赤本(非中央出版流通)の復活 赤本・手塚大河長編マンガ→中央進出「ストーリーマンガ」隆盛

50年代、子供向け挿絵小説、絵物語、紙芝居の隆盛と衰微 戦後ベビーブーマー市場

杉浦茂『少年児雷也』56(8)[ 8]  戦前的忍術のナンセンスな復活 武内つなよし『赤銅鈴之助』54~60(9) [910] 修行する身体 「真空斬り」 マンガページ増加(月刊少年誌のマンガ雑誌化 別冊ふろく合戦)

●スポーツ的身体 『バットくん』草野球練習、月刊誌マンガなどの野球、相撲、プロレスなどの練習場面はあった

いずれも「明朗」「健康」な身体 少年でありながら大人顔負けの活躍 あるいは超人的身体をもつ

5)初期手塚マンガと登場人物の「死」 子供マンガに「死」と悲劇を導入

●登場人物の「死」 [11] 戦時下習作『幽霊男』1945年 人造人間プポの悲劇と「死」

ワレワレゴヒヤクニンハ ヒガナイチニチ ハタラカサレ コキツカハレテ サビシクコハレテユクノヲ マツテヰルノデスガ、イツソ ダレカ イツペンデ コハシテクレナイカ(10) 〈この場面には、私が『アトム』などの手塚作品に感じてきた異者の悲哀が、すでに深く刻まれている。一瞬前まで生きてしゃべっていた者が、シューシューブツブツと音をたて、滴となって溶けてゆく。当時のマンガとしたら破格にリアルな死の描写だったはずだ。自分の存在の根拠を見出せないプポは、むしろ「死」を選ぼうとする。ところが死に直面すると、けしてそれを喜べない。この矛盾は、自分自身の目前の未来に「死」を感じていただろう十六歳の手塚の、戦時中の矛盾感情そのもののように読める〉夏目房之介(11) ※下線引用者 戦争体験の刻印とマンガの「死」 人間の存在への意識の「リアルさ」→手塚マンガによる戦後物語マンガ(悲劇性)の発動という読み

[12] 『地底国の怪人』1948年 主人公とともに活躍する知性をもったウサギ(少女、少年に変装)の「死」

ジヨン ぼく人間だねえ・・・・〉 マンガの「記号的な絵」の詐術(白土忍法と同じ)

手塚治虫が戦後本格的にスタートさせたストーリーマンガは、マンガという表現方法(伝達手段)によって、映画や演劇、文学で描かれていたドラマ、ストーリーを語ろうとするものだった。[]当然のようにドラマは笑いだけではなく様々な人間の感情を語っていくことになる。/手塚治虫自身が、ストーリーマンガ第一作と語っていたのが、一九四八年二月に刊行された書き下ろしマンガ単行本「地底国の怪人」である。〉米沢嘉博(12) 

手塚治虫の功績が讃えられなくてはならないのは、彼が単純な筋を追うだけの子どもマンガの世界に、小説や劇映画のような起伏に富んだ物語性を持ち込んだことにあるのだ。伏線を張り巡らせ、時には主要な人物が死んでしまうこともある。それは、手塚以前のストーリーマンガにはなかったものだ。/その意味で筆者は、手塚マンガのスタートラインを、単行本デビュー作『新宝島』(四七年一月三十日・育英出版刊/酒井七馬との合作)ではなく、四八年二月二十日に刊行された描き下ろし単行本『地底国の怪人』(不二書房刊)と考えている。〉中野晴行(13)

ここで耳男の描写が、身体性を欠いているということに気づかねばならない。ここでは、キャラが単純な線画で構成されていることが逆手に取られている[]耳男の「死」が衝撃的たりえたのは、その「死」が「もっともらし」かったからではなく、キャラが「かわいかった」からである。[]では、耳男の「死」によってもたらされたものとは何か。/それは、「キャラ」の強度を覆い隠し、その「隠蔽」を抱え込むことによって「人格を持った身体の表象」として描くという制度だと考えられる。[]/またこれは同時に、狭義の「マンガのモダン」の起源でもある。〉伊藤剛(14) ※引用文の「キャラ」については(14)参照 マンガ的な「記号表現」と「不死身の終焉」を「表現論」として読む 大塚「リアリズム」と「記号的身体」の矛盾をマンガの図像がもつ両側面(A/Bの矛盾と両立)から解読

冒頭「それがマンガだから」(同義反復)の問い直しと言語化

[13]『ジャグル大帝』1950~54年) (15)主人公(ライオン)レオの犠牲「死」 [14]『ロック冒険記』1952~54年)(16)主人公ロックの犠牲「死」 連載では生存→単行本化(※大手出版社が自社でマンガ連載を単行本化、新書化するのは60年代半ば以降)で死ぬ 多くは擬人化された登場人物の「死」 50年代少年誌で主人公の少年の「死」は描けなかった?

6)劇画~週刊誌~心理描写の高度化

●白土三平『忍者武芸帳 影丸伝』1959(S34)~62年) 多くの主要人物の「死」と大河物語形式の長編マンガが継承 赤本→貸本マンガに移行した周縁出版流通による読者層の青年化 貸本劇画(註1

1959年少年週刊誌創刊→「週刊少年マガジン」の「劇画」路線と梶原一騎原作による「スポ根」ブーム

 マンガ雑誌のTVへの危機感とTVとのタイアップ路線 メディアミックスの展開と市場の拡大

少女マンガへの波及とスポ根の終焉 少女マンガ版スポ根『サインはV』(1968~?)、『エースをねらえ!』(197380)など バレエマンガの確立 山岸凉子『アラベスク』(197175)「リアル」なバレエ 心理描写の高度化

●水島新司~ちばあきお~あだち充野球マンガによる「スポ根」の相対化と「ラブコメ」化 恋愛する性的身体

7)『ドラゴンボール』の不死身かつ「死にゆく」身体

不死身の復活? 鳥山明『ドラゴンボール』(1985~95)(17)[15] 「死なない身体」 何も考えない=「無垢」の強さ[16]→「気」の投げ合いによる空中戦へ[17] 「強さ」のインフレ 「強さ」を証明するために『DB[ドラゴンボール・引用者註]はペンギン村[鳥山明『Dr.スランプ』]から失楽園し、人は死ぬようになった。でも、そこにはまさにドラゴンボールがあった。[]死んだ主人公も、味方も、敵でさえも生き返り、おまけにそのたびに強くなり、前の敵は味方陣営に入る。[]世界のリセットとバージョンアップを同時におこなえる。[略 ドラゴンボールを作った]神様そのものが敵のレベルアップ同様の構造で反復再生産する。〉夏目(18)  「敵と後見人の増殖反復モデル図」[18]  「不死身の身体」を「傷つく身体」に底上げし、「傷つき、死ぬ」事態そのものを繰り返し消費(一回性の破棄)→「強さ」表現のハイパーインフレ=バブル的消費=ジャンプ的バトル路線 大塚的「リアリズム」と「記号的身体」の混合 「死」の反復 戦時~手塚の表現史を反復し娯楽消費様式に回収 ゲームなど他領域交錯

8)90年代以後

●「現実」もまた虚構化し、仮想空間との境界が曖昧になった時代の身体と「現実」への欲求

「リアル」な身体 夢枕獏/谷口ジロー『餓狼伝』(19)[19~20] 架空としても「理想」を失った時代 戦いの自己目的化→盲目的な技術向上 B)写実的描写

浸食された身体 山口貴由『覚悟のススメ』(20)[21~22] SF身体=ロボット~アーマー的拡張身体の身体内部への取り込み おたく感覚の性的虚構身体+言葉の「強さ」 共同性に浸食された隠喩的身体

内面化する身体 (吉川英治)/井上雄彦『バカボンド』(21)[23] 身体内部を「聞く」修行 B)写実的身体に内向する言葉(内感覚のリアリティ) 内面化する「強さ」の隠喩?

オーラの身体 板垣恵介『バキ』(22)[24~25] オーラの視覚化される仮想空間 →「強さ」の様々な画像的喩 

2は、読者が「視点キャラから距離を取って、客観的に突き放して見る」ような〈異化〉の感覚も同時にうながすでしょう。このような〈同化〉と共に〈異化〉を伴う体験を、日本の文学論では〈共体験〉と呼びます。(23)(2) 手前「視点キャラ」の衝撃で脳が揺れた状態の画像化 読者が登場人物に移入(同化)し空間の歪みを体験する 脳内現象、心的現象としての身体の画像化と共有 内的(対自)、外的(対他)身体を同平面に描く 世界=脳

内向する精神と世界現実の直接対峙=「セカイ系」の想像力 個の自然基盤=身体と世界/現実を貫通させたい欲求?

9)図像分析のための仮説的枠組み

現在我々が出会っているマンガの身体図像表現を「写実的/記号的」の二項対立で分析できるか?

●スコット・マクラウド『マンガ学(Understanding Comics The Invisible Art)』(23)の示唆 [26]

「リアリティ(具象性)・言語(意味性)・絵画的平面性(抽象性)」によるチャート(註3

●グルンステン『線が顔になるとき』〈キャラクターの視覚的造形化〉について〈現実に依存するか、原型を活用するかでつねに緊張しつつ、個と類の間でバランスをとる作業は、読者による物語の受容を決定的なやり方で方向づける想像的行為である。(24) 現実依存/原型(プロトタイプ)活用 原型=共有された類型イメージ=類? 概念?

物語受容の中で形成される図像の類縁的連合イメージ→直接的な喩えではない連合的、直観的な像解釈

●図像表現理解の三項化  隠喩、象徴などのレベル イメージや概念相互の関係で連合を形成 文脈的認知?

             |    |    ↑抽象度上がる

                    A)記号的 ― B)写実的

(1)鳥越信編『はじめて学ぶ日本の絵本史Ⅰ 絵入本かた画帖・絵ばなしまで』ミネルヴァ書房2001年刊52~56p

(2) 「少年倶楽部」)1933(S8)10月号 

(3) 大塚英志『アトムの命題 手塚治虫と戦後まんがの主題』徳間書店2003年刊158p

(4)大塚英志『映画式まんが家入門』アスキー新書2010年刊157p

(5) 宮本大人「ある犬の半生 -『のらくろ』と〈戦争〉-」「マンガ研究」vol.2日本マンガ学会  2002年所収68p,69p

(6)大塚『映画式まんが家入門』前掲80~83p

(7) 夏目房之介『マンガと「戦争」』講談社現代新書1997年刊25p

(8) 「少年」光文社1956(S31)8~11月号連載 

(9) 「少年画報」少年画報社1954(S29)年~60年連載 

(10) 『手塚治虫 過去と未来のイメージ展 別冊図録 幽霊男/勝利の日まで』手塚プロダクション199599p

(11)夏目房之介『マンガと戦争』講談社現代新書 199714p

(12)米沢嘉博『マンガで読む「涙」の構造』NHK出版 200415p

(13)中野晴行『そうだったのか手塚治虫 -天才が見抜いていた日本人の本質』祥伝社新書 200531p

(14)伊藤剛『テヅカ イズ デッド ひらかれたマンガ表現論へ』NTT出版 2005134~141p ※伊藤は本書で、一回性の人生を持つ登場人物としてのキャラクターと、単純な線画で描かれた、大塚英志のいう「記号的身体」に近い概念としての「キャラ」を分けて考えることを提唱した。その成立条件は以下である。

〈一、目、顔、体のある「人間のような」図像

 二、一人称と固有名による名指し

 三、コマの連続による運動の記述〉同書57p

 ただ、この概念は「キャラ萌え」現象にも敷衍されているので、伊藤の規定を越えてマンガに固有な概念から拡張され、アニメ、ゲーム、商品などをまたぐ概念へと広がっていく傾向をもつ。

(15)手塚治虫『ジャングル大帝』学童社「漫画少年」1950S25~54年連載 その後、何度も単行本化、雑誌連載され、その都度改稿。現在、講談社全集版は60~70年代に改稿されたバージョン。

(16)手塚治虫『ロック冒険記』講談社「少年クラブ」1952~54年連載。鈴木出版で1955~56年、3巻単行本化。その3巻で大幅に加筆し、鳥人の反乱と悪人東西南北(トンナンシャーペー ※アセチレン・ランプ)とロックの「死」が描かれる。

(17) 鳥山明『ドラゴンボール』「週刊少年ジャンプ」1985~95年連載  

(18) 夏目房之介「鳥山明『DRAGON BALL』試論 「強さ」とはなにか?」『マンガの深読み、大人読み』イースト・プレス2004年刊32~33p 

(19) 夢枕獏/谷口ジロー『餓狼伝』「コミックファイター」他1989~90年連載 

(20) 山口貴由『覚悟のススメ』「週刊少年チャンピオン」1994~96年連載 

(21) (吉川英治)/井上雄彦『バカボンド』「モーニング」講談社1998年~連載 

(22) 板垣恵介『バキ』「週刊少年チャンピオン」1999~2005年連載(『グラップラー刃牙(ばき)』1991~99年連載の続編) 

(23)泉信行(イズミノウユキ)『漫画をめくる冒険 -読み方から見え方まで-』ピアノ・ファイア・パブリケーション2008年刊44p

(23) スコット・マクラウド(岡田斗司夫監訳)『マンガ学(Understanding Comics The Invisible Art)』美術出版社 1998

(24)ティエリ・グルンステン(古永真一訳)『線が顔になるとき -バンドデシネとグラフィックアート-』人文書院 200873p

[1] 佐々木果(ササキバラ・ゴウ)『まんがはどこから来たか 古代から19世紀までの図録』2009年オフィスヘリア刊30~31p

[2]  Wilhelm BuschMax und Moritz polyglorttDeutscher Taschenbunch Verlag 1999 82,84,85124,127p

[3] 図版は三浦知志「ウィンザー・マッケイのマンガ作品に関する研究 「レアビット狂の夢」とマンガ言説の問題」2009年博士論文より

[4] 「少年倶楽部」講談社復刻愛蔵版第41976年同号39p

[5] 手塚治虫(戦争末期の習作)「勝利の日まで」『手塚治虫 過去と未来のイメージ展 別冊図録 幽霊男/勝利の日まで』手塚プロダクション1995226p

[6~7] 田河水泡『のらくろ武勇談』大日本雄辯会講談社1938(S13)年 講談社復刻版1969年刊 46p,110p

[8]『杉浦茂マンガ館』第2巻「懐かしの名作集」筑摩書房1993320~321p

[9~10] 小学館クリエイティブ1巻 2007105p,235p

[11] 前掲『幽霊男/勝利の日まで』100~101p

[12]手塚治虫『地底国の怪人』不二書房 1948146~147p ※海賊コピー版を使用

[13]手塚治虫『『ジャングル大帝』-『漫画少年』版』石川栄基 自費出版 1993年※頁数なし

[14]手塚治虫『ロック冒険記』(2)コダマプレス 1966126~127p

[15~17] 集英社ジャンプ・コミックス1986年刊224p14112p42121p

[18]前掲夏目房之介『マンガの深読み、大人読み』32p

[19~20] 夢枕獏/谷口ジロー『餓狼伝』朝日ソノラマ1990年刊31p,264~265p

[21~22] 山口貴由『覚悟のススメ』秋田書店少年チャンピオンコミックス1146p,160p

[23] (吉川英治)/井上雄彦『バカボンド』 講談社モーニングKC33?p

[24~25] 板垣恵介『バキ』秋田書店ワイド版「最強死刑囚編」7 364~365p、『グラップラー刃牙(ばき)』32巻 ※(23)泉信行著作44pより転載

[26]前掲スコット・マクラウド『マンガ学』59p

1 「劇画」は使用者によって定義が異なり、混乱をきたす。歴史的には1)貸本マンガにおける辰巳よしひろなどの提起した初期「劇画」と、その後、2)白土、平田弘史などを含む貸本系表現を含む言葉、さらに3)青年マンガ誌などで喧伝され一般化した「劇画」など、三段階ほどの変化がある。また、米コミックス、欧州BDなどを「劇画」と呼ぶ傾向もあった。ここでは、2~3)で使われた用語として使用する。

2 前掲書の泉の註によると、ここで述べられる同化・異化・共体験などの概念は西郷竹彦による。異化は、シクロノフスキーの「異化効果」とは別の概念という。

3 マクラウドの「具象・意味・抽象」の3つのレベルについては、D.A.ドンディス(金子隆芳訳)『形は語る 視覚言語の構造と分析』(サイエンス社 79年)で「具象的表現・記号的表現・抽象的表現」に分けた解説がある。〈全体的な抽象に向かってさらに詳細を捨象していくと二つの抽象のどちらかになります。一つは記号への抽象で、体験的意味を伴ったもののこともあり、恣意的な意味を与えられたものであることもあります。もう一つは純粋抽象で、視的命題を基本要素へ還元し、知覚的体験の具象的情報と何の関係もなくなります。〉同書83p 〈象徴記号が抽象的になればなるほど、その意味が公共の精神に浸透することが必要です。〉同書84~85p 〈すべて私たちの見るところを基本的な視的要素に還元する抽象過程は、視的メッセージの意味と構成にはるかに大きな意義をもっています。視覚情報が具象的であるほど、その意味は特殊です。より抽象的であれば、意味はより一般的かつ包括的です。抽象化は視覚的にはより強い、純粋な意味への単純化です。〉同書87p 具象化は特殊個別な対象を再現し、記号化は社会的に共有される(言語に類似する?)意味を追求し、抽象化は(抽象美術やデザインのような)視覚要素(形、構成、色彩など)の単位としての純粋化とその構成を追求する。この場合の「純粋な意味」は、視覚的な「意味」を指すと思われれる。

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