【書評】『生命の未来を変えた男』:iPS細胞と細胞社会
毎年十月になると、ノーベル賞の受賞者が発表される時期を迎える。昨年は、めでたく二人の日本人受賞者を迎えることができたわけだが、今年も同じような光景を目にすることができるのだろうか?
今、日本人で最もノーベル賞に近い男と呼ばれているのが、iPS細胞の研究をしている京都大学の山中教授である。昨年も受賞確実などと地元紙で報道されながら、惜しくも受賞を逃した方だ。本書は、その山中教授とiPS細胞の概要を解説した一冊である。ばっちりと予習をして、発表の日をむかえたい。
iPS細胞とは、人工多能性幹細胞の略。皮膚などの細胞に四つの遺伝子を入れることで生み出され、あらゆる細胞に変わる性質を持つ「万能性」を持った細胞のことである。その最大の特徴は、細胞の初期化にあるという。
一般的に生物の発生の過程において、受精卵から体細胞が生まれ分化すると、体細胞が出来る方向にしか進まないとされてきた。これをリセットボタンでも押すかのように初期化できてしまうのが、iPS細胞の特徴である。たとえば心臓に疾患を抱えている人の皮膚細胞からiPS細胞を作り、心臓の細胞を作らせる。その心臓の細胞を、病気になった心臓に移植するなどということも可能になるのである。
本書の序盤では、細胞発見までの道のりが描かれている。特にスリリングなのが、その研究発表における情報戦である。山中ファクターと呼ばれる四つの遺伝子解明→マウスでの実験→ヒトの細胞での実験と、成果を段階的に発表するたびに、世界的な研究室との競争における優位性も初期化されてしまう。アメリカの研究体制や能力をもってすれば、ステップごとのリードなどあってないようなものである。抜きつ抜かれつの情報戦は、最終的にアメリカの研究グループが雑誌のオンライン版の公表日を前倒しをすることで、同着一位となってしまう。
彼らは決してノーベル賞や名誉が欲しくて、レースのような競争をしているわけではない。先発明主義と呼ばれる知的財産権に、大きな影響を与えるためである。将来的に、iPS細胞が実用化された時に、主要な特許を外国企業に抑えられていると、日本発の技術ながら、その恩恵が十分に受けられてなくなってしまうという。やはり、二番ではダメなのである。
一方で、後半で紹介されている倫理問題もグイグイと引き込んでくる。iPS細胞を使えば、男性同士の子どもを作ったりキメラと呼ばれる融合動物を作り出すことも可能なのだ。時間、場所、性、そして種の壁も超えて、様々な生命を生み出す新しい細胞社会の到来がすぐそこまでやってきている。
有限と思われていたものが、限りなく無限なものへと近づくと、その利用の仕方にも当然変化があらわれる。そこで懸念されるのが、細胞の生命を機械的に扱うことによる、「体」という概念の変化である。山中教授は、本書の後半に収録されている対談で、このテーマについても、ずいぶんと踏み込んだ発言をされている。デリケートな問題を取り扱いながらも警戒感を抱かせないのは、教授の誠実さのあらわれであるだろう。
この日本発の技術が、日本社会に突きつけているものは、意外と重い。問われているのは、「正常な老化とは何か」ということでもあるのだ。宗教的な基盤を持たず、いち早く高齢化社会を迎える日本が、いったいこの技術をどのように受け止めるのか。この問題を、科学の領域だけに留めてはならない。
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