予測できないITの行く先を、あちこち歩きながら考えてみます

佐々木俊尚氏と岡田有花氏の見解が時を超えて一致したような気がする

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インターネットの登場によって、マスメディアだけが情報発信できる、という時代は終わった。という話はよく聞きます。最近もそれを象徴することがあったので、ここで書くことにしました。

いまやブログなどにより個人でもメディアが持てるのだ。という話はよく聞きます。しかし、それによってメディアやビジネスはどう変わるのか、については、まだ多くの試行錯誤が繰り返されているようです。

メディア側の人間が、「もう情報発信は我々だけの特権ではない」と、気が付いた文書を僕が始めて読んだのは、フリージャーナリストの佐々木俊尚氏の2004年11月のブログででした。

インターネットが取材を変える日」というエントリで、自分の取材過程が取材先のホームページで開示されるかもしれない、という経験をした佐々木氏は、こう書いています。

たぶんこれからは、取材という行為自体もこのようにして相対化されていくのではないかと思った。つまりは取材する側と取材される側が、同じ土俵の上に乗っていくということである。そして取材という行為が相対化されていくということは、その結果生み出される記事そのものも相対化されていくということになる。(太字は新野による)

僕自身、オンラインメディアでずいぶん仕事をしてきたので、佐々木氏がこれを書くずっと以前からこうした可能性について気が付いてはいたのですが、この佐々木氏のエントリを読んで、現実に起きているんだ、と認識を新たにしたことをいまでも覚えています。

これが2年間。佐々木氏のいう「相対化」は、いまでは頻繁に起きています。

よく知られたところでは、ビル・ゲイツ氏の引退宣言にあたり、日経BPからインタビューを受けたマイクロソフトの元社長 古川亨氏の件。古川氏は、ITProに掲載された日経BPの記事に対して自分のブログで「編集者の受けを狙った見出しにされることによって、取材内容と全く異なる論旨の記事にされたことに怒りすら感じています。」と意見しました

その結果、記事のタイトルが「ビル・ゲイツはネット時代のアーキテクトにはなれなかった」から、「ビル・ゲイツ氏引退の舞台裏」に変更されました(それ以外にも変更が行われました)。

もしも、古川氏が自分のブログを持っていなかったら、ITProの記事に意見することはできなかったかもしれません。しかし古川氏がブログという自分のメディアで情報発信したことにより、読者は結果として、より正しいと思われる情報を得ることができました。

もう1つ最近の例を。

ジャーナリストの鳥越俊太郎氏のインタビューが、ITmediaの記事「ブログでも2chでもない「市民新聞」とは」として掲載されました。このなかで鳥越氏は、「2chはどちらかというと、ネガティブ情報の方が多い。人間の負の部分のはけ口だから、ゴミためとしてあっても仕方ない。」と、2ちゃんねるを「ゴミため」扱いした結果、当然のようにおもに2ちゃんねらーから大きな反応がありました。

しかしこの記事に対して、鳥越氏は9月2日のシンポジウムで「僕は、実はインタビューのとき、たしか『一部の』と言ったつもりなんだけどね」と、記事の内容が自分の発言とは違うと釈明。この釈明は、オーマイニュースの記事やシンポジウム参加者のブログで明らかになりました。

しかしその2日後(9月4日)に、インタビュー記事を書いたITmediaの岡田有花氏が書きおこした記事「どの情報を信じますか?」で、

インタビューの際、鳥越編集長は「一部の」とは言っていない。該当部分のテープ起こしをそのまま掲載する。

と、鳥越氏は「一部の」とは言っていない、と反論しています。

いままでなら、こうしたシンポジウムでの発言は、その参加者に対して「ああ、記事が間違っていたんだな」という印象を与えておしまい、ということが多かったと思うのですが、それがネットにアップされ、さらにその反論がメディアに掲載される、という時代になったのです。そして、こうしたやりとりによって、読者には何が事実なのかを判断するための、より多くの情報を得ることになりました。

さて、僕が興味を持ったのは、この岡田氏の反論の部分だけでなく、岡田氏はちゃんと佐々木氏が指摘した「相対化」を認識して記事を書いている、ということ。この記事の冒頭にこうあります。

メディアの報道に関して、取材対象者がブログなどで直接反論することが増えてきた。どちらを信用するかは、情報を受け取ったユーザー次第だ。(太字は新野による)

音声記録が手元にあれば、新聞や雑誌なら「これが事実だ」と書くことでしょう。しかし、「どちらを信用するかは、情報を受け取ったユーザー次第だ」と書くということは、しょせんはメディアに載った情報は読者にとって相対的なものでしかない、という認識からなのでしょう。

ITmediaや@ITやオーマイニュースなどのオンラインメディアはもう、「これが正しい記事です」という立場にはなくて、「『なにが正しいか』を探すための材料として記事を提供しました。ほかのブログや他社メディアなどと見比べてください」といった感じで相対化されてしまっている、されつつある、というのは僕も同感です。

だとたら、これからのメディアは、読者やほかのメディアと反応しながら協力し、ときには記事を修正しつつ、読者に「よりよい情報」を提供するという役割に変わっていくのではないでしょうか。もしこうした外部と協力することを拒否すれば、うまく外部と協力しているほかのメディアよりも記事の質が落ちることを覚悟しなければなりません。あるいは外部と対立したなら、米国の著名なニュースキャスターのようになるかもしれません。

これをメディアの人間が自覚的に考えるならば、これからの記者、編集者は、単に記事を出しておしまい、ではなくて、記事に対してどんな意見や反論が寄せられたかに反応し、さらに深い議論や事実を追求していく、という能力がいままで以上に求められていくのでしょう。

Comment(4)

コメント

Google Newsのきっかけが9.11で、いろんな切り口で異なる視点に目を通そうと、ニュースサイトを読み歩く日々が続き、その経験を通して気がついたのが、これが予想以上にしんどい作業だったということらしいですよね。

mohno

ジャーナリズムとは少し違いますが、当事者がインターネットを通じた情報発信で企業と戦った例は以前からありますね。
http://www.ilc.gr.jp/journal/990805_1.htm
(本まで出ているとは知りませんでした^_^;)
そういう場所を活用できる人に限られるでしょうが、もう取材者も被取材者も“勝手”は許されないでしょうね。以前は“許されていた”わけでもないですがが^_^;

たま

>記事に対してどんな意見や反論が寄せられたかに反応し、さらに深い議論や事実を追求していく、という能力がいままで以上に求められていくのでしょう。

それが、エディタということなのだと思います。そして、エディティングの優劣で、収入は測られていくのだろうと、思うのですが、いかがでしょう?

アンノウン

その昔、格付会社でアナリストをしていた頃の話しですが、日経の記事の半分には記者の偏狭な志向に基づく余分なベクトルが入っていて、それを取り除くのに苦労してました。一つの記事の中でウソとホントが混じってるので、やっかいなのです。
 取材された会社も訂正を求めても新聞社は何もしないので、プレスリリースとかを出す訳ですが、世間レベルには届かない。そういう歯痒さ、マスコミの横暴さを少しでも押し返すツールとして、インターネットはアリだと思います。特に取材した記者名を公表してしまうのも一つの効果的な手でしょうね。記者はたまったものではないが、あんたはずっとそういうことをしてきたんだと、自分のこととして分からせる必要がある。

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