No.2 匿名性の高い実名と匿名性の低い仮名
実名か匿名か。前回取り上げた小倉弁護士の言い分に対して、小飼弾氏は「有名人こそ、匿名を援護せよ」というエントリにおいて、匿名性の効果だけでなく「名前格差」について書いています。
名前が知られているということは、すなわちその名前に対してさまざまな情報―個人情報だけでなく、書いてきたもの、発言履歴など―が結びついていると言い換えられます。小飼氏のエントリに対して付け加えるなら、「有名人がより有名になる」という意味での名前格差だけでなく、「名前力」が高い人は、実名を公開することのリスクもより多く負うことになるでしょう。
実名を検索しても現れることがない名前で、突然何かを書き込んだとしても、それが実名であるかどうかも分りませんし、そもそもどんな人なのかもわからない。非常に匿名性の高い実名です。逆に、ハンドルで書き込んでいても、それまでの投稿履歴やプロフィールが結び付けられるならば、匿名性は一気に低下します。大野氏の「必要なのは実名ではなくトレーサビリティ」では、このことを「責任の所在を明確にすること」と書かれています。また、黒木 玄氏による 「匿名」による批判の禁止ルールについてというドキュメントは、既に2001年にこれを明快に述べています。
J-CASTニュースにて「文筆家の松岡美樹氏に聞く ネットでの誹謗中傷問題(下)気軽に参加の匿名 ネットの発展につながる」という記事が掲載されていました。この中で松岡氏は、mixiでの実名登録がどのような問題を起こしてしまったかを例に挙げて、実名登録が必ずしも安全でないことを指摘しています。
この視点はとても大切です。実名なら安心であるとか、逆に匿名だから安心、と思っていることが、実は「安全」ではなかった‥と可能性を考えておく必要があります。Mixiは実名とハンドルの関連付けが容易な環境だったゆえに、個人情報が次々と結び付けられた結果となりました。
こうした「安心」と「安全」のミスマッチの背景には、インターネット上の匿名性が「視覚的匿名性」、すなわち「顔が見えないから匿名」という前提で考えられてきた経緯があります。自分の好きな名前を名乗ることができるために、自分の身元は他人に分からないと考えられてきました。この経緯については、宮田加久子氏のきずなをつなぐメディア―ネット時代の社会関係資本よい参考書になっています。
日本の場合、パソコン通信とインターネットが相互につながり、一般にインターネットの利用が浸透した1995年前後からその傾向は強くなりました。それまでは限られた大学や研究機関でのみネットを使えたため、ドメイン名を見ればどの組織にいるかも分かりましたし、メールアドレスから個人を特定するのは比較的簡単だったのです。その後、プロバイダのアドレスやフリーメールによって、メールアドレスからでは個人が特定されにくくなり、インターネットは匿名性の高い空間だと考えられてきました。そうした中で、人間関係を元にしたSNSや、日々の記録をつづるブログが普及し、実名はわからないけれど、その人の生活やプロフィールは躊躇なく公開されています。実名を検索して得られる情報よりも、ハンドルを検索して得られる情報によって、さまざまな情報が関連付けられて、本人が特定されることも十分ありうるでしょう。悪い意味だけでなく、実名では勤務先や人間関係の都合上書けないことがあっても、継続したハンドルで何かを書き続けるならば、ハンドルが持つ匿名性は低くなり、より責任を伴う名前に変化していくこともあるわけです。
複数の情報が同一人物の元に関連付けられることを、Linkability(リンク可能性)と言います。リンク可能性の視点で匿名性をとらえると、より現実的な捉え方ができるのではないでしょうか。
実名を隠していることに「安心」しすぎて、「安全」ではない行動をとっていませんか?
参考:
・文部科学省「安全・安心な社会の構築に資する科学技術政策に関する懇談会」報告書
・板倉陽一郎: インターネット上における「意図せぬ公人化」を巡る問題. 情報処理学会研究会報告電子化知的財産・社会基盤 vol.34 No.3,2006
NTT出版 (2005/03)
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(注)
ちなみに、「安心・安全」と並んで使われる言葉ですが、文科省(2004)によれば、安全とは損害がないことが客観的に判断されることであり、安心は個人の主観的な判断に依存するものと区別されています。安全でないものに安心したり、あるいは安全が保たれていても安心できないといったズレが生じる余地があるわけです。