花園大07後期集中講義レジュメ6
7)林静一に見るアニメとマンガの関係
林静一
45年 旧満州に生まれ、翌46年、父、兄弟を失って母と帰国
58年 中学生で長編マンガを描き始める
60年 日本デザインスクール入学
62年 東映動画入社
63年 虫プロ『鉄腕アトム』によるTVアニメブーム
同年東映動画のTVアニメ『狼少年ケン』を担当
65年 『太陽の王子ホルス』(68年公開)制作中断にともない東映動画退社
先輩月岡貞夫とともにアニメ制作会社設立に参加
66年 自主製作アニメ『かげ』
「ガロ」にマンガ『アグマと息子と食えない魂』でデビュー
以後、ガロにマンガを発表しつつ、TV制作会社を続け、個人アニメ・アーティスト、イラストレイターとして活躍
70年 「ガロ」に『赤色エレジー』連載開始
TVアニメ化で、大量のフリー・アニメーターを抱え、若い林なども彼らを数十人単位で束ねていかねばならなかった。また、当時の東映動画はクリエイター集団で、絵画、音楽、マンガなど、あらゆる方面に敏感なアンテナを張っており、「ガロ」はほとんどのスタッフが講読していた。そういう雰囲気の中で、宮崎駿らにも声をかけ、若いアニメーターとマンガ同人誌を企画。結局、同人誌には作品を載せなかったが、「ガロ」に投稿する。
(八王子市夢美術館 「林静一 叙情の世界 1967-2007」展図録 2007年 「林静一ロングインタビュー」及び2007年12月16日林静一、山下裕二、湯浅学、夏目トークショーでの発言による)
〈それで『ガロ』って言うのは[略]作品募集っていうのがあったんです。当時『マガジン』、『サンデー』を見てみると分かりますが、読者から作品募集をしていないと思います。それまでの流れは手塚さんに弟子入りする。そのうちに編集者が新しい雑誌作るって、いい描き手はいないかなって手塚さんに相談すると、「うちのアシスタントで腕を上げている若いのが居る」って、多分そういうルートだったと思うんですね。〉(前掲図録「林静一ロングインタビュー」 47p)
〈アニメーターって言うのは音楽に関しても、絵画についても、いろんなアンテナをはっていて、あれ面白いよ、と社内で噂になる、その中のひとつが『ガロ』という漫画。とにかくあの頃の動画は100人ぐらいいましたけれど、ほとんどが『ガロ』をとって読んでいました。私も読んだ時に「あぁ、漫画にも大人が読んでも面白いものがある」と当時思いました。〉(同上)
〈60年代は、漫画に象徴されるような子供文化から青年文化に市場が拡大していく時代です。大学生が支えて読む、そうするといろんな雑誌社が青年向けの漫画雑誌を出し始めますね、それはずっと遅れて70年代に本格的になる。小学館なんかは『ビッグコミック』を出します。またそれと同時に、アメリカが起こしているベトナム戦争、それから日本独自に抱えている、アニメリカとリンクされている安保条約の問題、そういうことで世の中騒然としてくる。総じて若者がムーブメントを起こしている感じです。若者文化が、こうぐぅーっと前面に台頭してきた。服装でいうと、石津謙介さんのVANがあり若者文化台頭期でしたね。成熟期じゃなくて台頭期。これから力をつけて、いろいろ表現を広げていく。そこに、ちょうど漫画がふつかっているわけです。一番先頭走っていたのは漫画だったと思います。ファッションと漫画が一番先頭走っていたんじゃないですか。日本の青年漫画が世界の漫画の中で先端を走っていたと思います。〉(同上 49p)
● 東映動画労組の自主制作的作品『ホルス』への白土三平の影響
● 「若者文化」の自覚と、自己表現文化のアニメーマンガ共有関係
アニメ現場とマンガ現場の相互交流
● 虫プロ型TVアニメの「劇画」化(貸本マンガなどから、漫画家が続々とアニメーターになる 村野守美、真崎守、永島慎二など
出崎統
43年生 貸本劇画を描くなどマンガ家を目指しつつ、63年虫プロに参加。『アトム』『悟空の大冒険』を演出(『悟空』は「COM」にマンガ連載も)。70年、弱冠26歳でTVアニメ『あしたのジョー』総監督。
〈夏目 僕は、日本のアニメの極端なリミテッド・アニメ(ディズニー式の1秒24コマではなく、はるかに少ないコマ数しか使わない)が、たんに経済的な理由じゃなくて、ちゃんと美学になるんだって感じたのは、それこそ出崎さんの『ジョー』の力石戦でしたから。
出崎 僕ら、マンガ映画じゃなくて映画をやりたい。映像を、劇画をアニメにしたかった。リミテッドなんて意識はなくて、ドラマで見せる。ドラマが伝われば、逆に止まった絵のほうが迫力がある場合もある。当時、アメリカン・ニューシネマの時代でもあって、そういうのはごく自然にね。
夏目 そうそう。出崎演出にはニューシネマを感じたんですよ。〉(「ジョー&飛雄馬」講談社 03年8月25日号 Vol.31 特別対談 辻真先・出崎統・夏目房之介 1 )
〈辻 虫プロでダンさん(永島慎二=マンガ家、『柔道一直線』『フーテン』など)が、最初にアニメの演出した時、僕が脚本書いたんですよ。やっぱり動きなんか違うんですよ。動画の動きというより、内容、主題を追うというか。
出崎 あの頃、マンガというか、劇画描いてたのが集まってたから。劇画出身のアニメ映像第一世代みたいな感じで。〉(同上 03年9月10日号 2 )
〈出崎 忘れもしない。僕は[『あしたのジョー』で]、西が丈のボディを食らって、うどんを鼻から出す時にね、西が倒れてくと同時に、丼が地面に落ちてくのを、5回くりかえし描いたんです。絵コンテで。さすがに周囲に言われて、1回にしたけど。でも僕はやりたかった。そのくらい、ここは西のヤマ場だと思った。落ちていくうどんが西を象徴してるし・・・・。
辻 それが出崎美学でもある。コマでやるとしつこいかもしれないけど、時間演出でやる分にはしつこくならない。映像ってそういうもんですね。
夏目 リアルっていうけど、現実そのものとは全然違いますよね。テレビアニメの時間って、何なんでしょうね?
辻 ねぇー。
出崎 映像の一秒と現実の一秒は全然違うもんなんです。不思議ですよ。〉(同上 2)
● 表現意識の高揚と作家性の突出がマンガ、アニメの越境の中で交錯していた
● それは同時に、それぞれの新しい表現の開拓とメディア特性の発見でもあった →その後、それぞれが「マンガ史」「アニメ史」を別個のカテゴリーとして「純粋化」してゆく?
アニメ史からの言及 津堅信之とサカキバラ・ゴウ
〈これら劇画調アニメ[『巨人の星』『あしたのジョー』]の演出や作画を担当したのは、『鉄腕アトム』以降に虫プロに入社した出崎統(注43)、りんたろう(注44)、冨野喜幸(注45)、真崎守(注46)らである、しかも出崎のようにもともと劇画を投稿していたり、真崎守のように出発はアニメで後に漫画家、さらにアニメに戻るという、漫画と密接に関わりがあるスタッフが手掛けていたという点である。劇画調アニメが止め絵を多用していることについては、冨野のように、「それしか出来なかったんです。だからそれを善としちゃいけないし、重視する必要もありません」(注47)と批判する当事者もいるが、『あしたのジョー』のように、タッチを効かせた止め絵をそれに重なる効果音とで、つまりほとんど絵を動かさないでアニメを作ってしまう、「止め絵の美学」ともいうべき一つの様式が生まれたことは間違いない事実である。
第二に、劇画調の止め絵の表現を多用するということは、原作漫画の雰囲気を壊さずにほぼそのまま映像化することになるという点である。そして実は、『鉄腕アトム』が爆発的な人気を呼んだのも、子どもたちにとって原作漫画が「そのまま動いている」ことへの感動が大きかったはずだ。そもそも、テレビアニメ『アトム』が証明してみせたことは、漫画の絵がそのまま映画(テレビアニメ)の絵コンテとして転用できるという点である。[略]
つまり、虫プロが案出して批判をあびた「三コマ作画」に代表される省力化システムは、漫画の絵がそのまま動くことへの感動という副産物を生み出し、それが日本アニメの動きの点での様式となったのである。同時にそれは、人気漫画がそのままアニメ化されるという、日本における漫画とアニメとの絶対的な関係が確立された瞬間でもあった。〉(津堅信之『日本アニメーションの力』NTT出版 04年 147~149p)
りんたろう(41年生)
冨野喜幸(41年生)
真崎守(41年生)
〈六〇~七〇年代に、日本のアニメは文法を急激に拡張してきた。その一端は、すでに述べたように『ホルス』で宮崎[駿]や高畑[勲]らが挑み、築き上げてきたものだ。東映動画でつちかわれた技術を基礎に、「普通のことを普通に描ける」ような奥行きのある表現が獲得されていった。
これとは違う流れとして、六〇年代に虫プロダクションで活躍した人たちを中心に開発された文法がある。東映動画系とはまったく違う環境で生まれ、思想を異にするその表現は、その後のテレビアニメに大きな影響を与えた。
杉井ギサブロー、真崎守、りんたろう(林重行)など、虫プロでそのようなアニメ表現の可能性を追求してきた数々の監督の中でも、特筆すべき存在が出崎統だ。〉(大塚英志+ササキバラ・ゴウ『教養としての〈まんが・アニメ〉』講談社現代新書 01年 162p)
宮崎駿(41年生)
高畑勲(35年生)
杉井ギサブロー(40年生)
〈止まった絵に意味やメッセージを持たせる演出力と、それを支える高い作画力や技術革新が、それ[静止画を重要視したアニメ表現手法]を可能にした。[略]
その手法とは簡単にいうと、「写実」ではなく、「印象」を描くことだ。[略]
アニメを単なる「動画」としてではなく、「絵による映画表現」ととらえ、ビジュアル表現を徹底的に追求する気運が、六〇年代後半の虫プロには生まれていた。[略]
こうして、絵はデフォルメされ、画面はアップになり、構図は傾き、背景は単なる風景ではなく心象と変貌していく。杉野昭夫ら劇画出身の作画家たちが、その要求に応える高い密度の絵を描き、タッチの多い描線は、しばらく前から普及し始めていたトレスマシンをフルに活用して忠実にセルの上に転写され、映像化されていった。〉(同上 166~173p)
● アニメとマンガの表現革命期の相互影響 人的交流
● マンガの絵(3Dにならない平面キャラクター)をそのまま画面に使えるアニメの開発→止め絵を美学に昇華する新たな表現手法(出崎ら)→日本アニメの独自性
● ある意味では、日本アニメはマンガ化したアニメーション・フィルムである
● また、マンガもまたアニメの影響を深く受けて発展する
こうした観点からあらためて林静一のアニメ、マンガをふりかえってみる
● マンガ、アニメともに「自己表現」へ向かう若いアーティストたちのベクトルを抱え、それぞれの表現革新を同時的に行っていた
● その後、マンガとアニメは、それぞれの批評言語の中で「マンガをマンガとしてとらえる」「アニメはアニメとして発展してきた」というジャンル意識の確立に伴い、その深い相互関係を言語化せずにきている
● しかし、メディアの違いを超えて、ここには表現や人的関係など、今後研究されるべき多くの要素がある。
● (文化のジャンル意識→「輪郭」の形成と、21世紀以降の問い直し現象
再び「マンガとは何か」の時代に
試験
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