花園大07後期集中講義」レジュメ1
2007年12月25~26日 花園大学後期集中講義 夏目房之介
マンガとは何か?
12月25日
午前
1)「マンガとは何か」という問い
図1 林晃『美少女的画報』(接力出版社 2001年 10p)
を見て、どんな感想を持つか?
①よくあるマンガの女の子 ②よくある少女マンガの女の子 ③よくあるアニメ絵の女の子 ④異様に目玉が大きい女の子 ⑤男の子か女の子かわからない
吉村和真「2、あなたのマンガリテラシーはどれくらい? 絵柄の読み解きをめぐる比較文化論」吉村他『差別と向き合うマンガたち』臨川書店 2007年 17p
〈①~③を選んだ人は、普段からマンガやアニメを見慣れている方々と思われるが、③は特に愛好家レベルだろう。というのも、「アニメ絵」という言葉自体、必ずしも一般に普及したとはいい難い業界用語だからである。
一方、④~⑤を選んだ人は、あまりマンガを見慣れていない方々だろう。もちろん、それで別段困ることはないし、何の優劣にも関係ない。とはいえ、私のこれまでの経験では、およそ年齢が高い世代にしか該当者がいないため、その意味では少数派と思われる。
だが、同じ質問を海外の人々に投げるとき、さらに図1の出典を知るとき、事態は複雑な様相を帯びてくる。
例えば、アメリカでは、④のような感想を持つ人たちは決して少数派ではないようなのだ。[略]
だが、同じ海外でも、東アジアでは事情が異なる。実は、図1は、林晃『美少女的画報』(接力出版社 二〇〇一年)という、いわゆる「マンガの描き方」からの引用で、林晃『美少女キャラの描き方』(グラフィック社 一九九九年)という日本の書籍の翻訳版なのである。[略]つなわち、中国(少なくとも北京)では“ジャパニーズスタイル”と同じような文法が普及し、アメリカと違って、むしろ描き手がそれをお手本にしているのである。〉(前掲『差別と・・・・』17~19p)
● マンガには、マンガ固有の「読み方」「文法」があり、それを理解する能力(リテラシー)がなければ、マンガを描くことも、読むことも難しい。
● それは、まず年齢差に顕著に見られ、とくに図1のようなアニメ絵系のマンガには差があらわれやすい。
● そして、図1の顔から何を読み取るかで、その人のマンガ・リテラシーのレベルが見えてくるし、同時にその人の属する社会集団、年齢、性別、趣味嗜好なども予想できる。
● 国内の社会集団、世代差だけではなく、海外から同じ現象を眺めると、マンガ・リテラシーが日本の固有な歴史の中で育ってきたものであることがわかる。また、それは東アジアやアメリカといった、地域差によっても大きく左右される。
〈[これまで書いたことは]マンガ・リテラシーの習得過程はおよそ無自覚的であり、ゆえにマンガは「私たち」に根深い影響力をもつということでした。逆にいえば、それは、マンガ・リテラシーを習得しないという選択が、もはや「私たち」には不可能であることを意味しています。[略]「私たちはマンガが読める」。しかしそれは、「私たち」だから「マンガが読める」のではありません。むしろ逆です。マンガという表現/メディアの読書・解釈共同体であることが、「私たち」という存在を規定するのです。したがって、たとえば「私たち」の多くに現代日本に居住する人々が含まれるとしても、それは「日本人」だけに限りません。それどころか、日本のマンガが“MANGA”という表記で海外に広がりつつある現在、「私たち」の存在はまた、その輪郭を着実に広げつつあります。〉吉村和真「マンガ -その無自覚なまでの習得過程と影響力」 葉口英子、河田学、ウスビ・サコ編『知のリテラシー 文化』ナカニシヤ出版 2007年 22~23p
● 作るだけでなく、読み、流通させる人々、マンガ・リテラシーを「自然」に属性にしてしまった社会集団がマンガを成り立たせ、またその人々はその集団のあり方によって規定されている。
● とすれば、マンガを読む人々=「私たち」が国境を越え、世界に浸透している現在、マンガという存在のありようと、それを捉える枠組も変わる。
● 現在は、そのようにして「マンガ」「MANGA」「漫画」の輪郭が揺れ動く時代である。
午後?