【Book】『バイオパンク』 - ものすごくSF的で、ありえないほど日常
かつてスティーブ・ジョブズは「文系と理系の交差点に建てる人にこそ大きな価値がある」という話を聞いて、その道を志すことを決心したそうだ。すなわち人文科学と自然科学の交差するところに、自身の活路を見出したということである。
その感覚の正しさは、現在の世の中の趨勢を見れば火を見るより明らかなのだが、スティーブ・ジョブズが決心したのは、もう何十年も前のことである。以降、新しい交差点はいくつも出来て、中には消えていったものもある。
本書で紹介されている内容は、その新しく出来た交差点の中でも最もホットな領域にあたるのではないかと思う。それが生命科学と情報科学の交差点である。発端は2003年のヒトゲノム・プロジェクトによるDNAコードの解読だ。研究者たちは、生命の設計指示書であるDNAコードとコンピュータのプログラミングに使うコードが驚くほど似ていることに気付いたのである。
コンピュータハッカーの第一世代が自宅のガレージで革新的な技術やソフトウェアを生み出したように、21世紀のバイオハッカーたちも自宅のガレージやキッチンで、DNAデータを使って生命言語の操作に乗り出しているという。かつてのハッカーを彷彿させるアウトサイダー研究者たち。本書はそんな彼らの実像に迫った生命科学の最前線レポートである。
MITを卒業したあと就職せず、自宅のキッチンで揃うものとインターネットで買える中古品だけで遺伝子検査システムを組み立てた23歳のケイ・オール。彼女が知りたかったのは遺伝疾患の原因遺伝子の有無である。高級クリニックで数千ドルを払って遺伝子検査を受けることもできた。しかし彼女は、ほおの内側を綿棒でこすりとった試料を特注の物質と混ぜ、クローゼットに設置した機器にセットするだけの方法を選んだのだ。
大学を卒業後、DIYバイオという組織を立ち上げたマッケンジー・カウエル。彼は家族が用意してくれた2万ドルの信託財産を使って、オークションで輸送用コンテナを購入した。そして十分な広さの裏庭とアイデアがあるところならどこへでも牽引していける、可動式ウェットラボとして活用したのである。それはバイオテクノロジーのドアを、経歴や所属組織に関係なく、一番クリエイティブな人に開放したいという信念を形にすることであった。
ヤシの木のプリント模様が入った派手なオレンジ色のポロシャツを着た28歳のジョン・シュレンドン。相棒のシュレンドンと、自身の免疫系を操作して癌細胞を殺すというアイディアを追求している。二人は住宅街のガレージの中にポリ容器とビニールシート、中古の高性能フィルターを使って、実験装置を組み立てた。そして、免疫細胞が癌細胞を叩きのめす様子をどんどんビデオに撮りためていっているのだという。
まるでSFの世界のような話が、ありふれた日常として描かれている。ちなみに標題のバイオパンクとは、元々はSFの派生ジャンルを指し、遺伝子操作などの合成生物学に基づいて未来を描くもののことである。 それにしても、一体何が彼らを突き動かしているのか?それは、次の一言に集約される。「我々に疑問がわずかでもあるなら、だれかに答えてもらうのをただぼんやりと待つことをしない。」(※「バイオパンク宣言」より)
生命科学と情報科学が交差する。この出来事が双方の分野に与えるインパクトは非常に大きい。例えば、ネットの領域。コンピュータ・コードのウイルスによるデジタル世界の破壊なら、景気やインフラを弱らせるだけですむかもしれないが、遺伝子コードで作成された人工ウィルスがヒトのネットワークに入り込んで広がれば、死人が出ることもある。ネットの世界におけるセキュリティやウィルスは文字通りの意味に原点回帰するのだ。つまりは、ネット世界が身体性との接続を果たすということを意味する。
そして遺伝子の領域。デスクトップDNAシーケンサーはゲノムを読み取り、そのデータをiPhoneに同期させる。ソフトウェアは「遺伝子デザイナー」がDNA断片を切り貼りして「遺伝子マシン」を設計するのを助ける。ITの進化は、他の分野同様に生物学の進化も後押ししてきたのだ。
本書を一読した後の読後感は、初めて『ウェブ進化論』(梅田望夫・著、ちくま新書)を読んだ時のインパクトに酷似していた。ウェブ進化論で「次の10年への三大潮流」として書かれていた、「インターネット」、「チープ革命」、「オープンソース」。これらがまさに今、遺伝子の領域で起こっているという印象なのだ。
例えば、ウェブの世界にGoogle社が登場したように、インターネットの「あちら側」で情報発電所の役割を果たす企業もいくつか出現してきている。そのうちの一つが、消費者直販ゲノミクスの23&ミー社であるだろう。顧客は試験管の中に唾液を入れ、それを郵送するだけだ。その後、ラボ作業が終わると、顧客はウェブサイトでパスワードを入れてログインし、自分専用のページで検査結果を読む。ちなみに、23&ミー社を創業したアン・ウージスキーは、あのGoogle社の共同創始者、サーゲイ・ブリンの奥さんだ。
また、オープンソース・ハードウェアの登場により、バイオテクノロジーのツールはチープ革命の真っ最中だ。シリコンバレーのテックショップのような市民向け機械作業所では、発明家の卵のだれもが会費を払いさえすれば、施盤からフライス盤、コンピュータ式ビニールカッター、工業用ミシンまで何でも使えるのだという。3Dのプリンターなら、コンピュータの画面から試作品まで一気に造形できる。インターネットで条件のいい加工業者を探し出し、そこに設計図を送れば試作品が宅配便で届く。こうした動きはみな、究極的には「ツールをなるべく多くの人に」という方向へと邁進しているのだ。
さらに、癌治療のリナックスを目指している企業もある。生協モデルでの治療を模索する、ピンク・アーミーという組織だ。ある治療法があるメンバーに効いたなら、その情報をピンク・アーミーにフィードバックする。別のメンバーがそれを試してみる。効くかもしれないし、効かないかもしれない。それぞれの実験の累積で、大きな知見が得られる。そんなオープンソース・フィードバックループという仕組みを考案している。
これまでにオプティミズムと行動主義が、ウェブを牽引してきたという側面は否めないだろう。事実、コンピュータの世界で最強のハードウェアとソフトウェアは、ガレージの中から生まれてきた。一方で、このような捉え方には問題点もある。それは、はたしてバイオテクノロジーという領域をウェブのアナロジーとして理解していいものだろうかということだ。特に慎重に議論されるべきなのは、合成生物学が神の領域にあたるのではないかということである。
これについて著者は、遺伝子工学者がどれほど創造性を発揮してみたところで、自然界が作った精密な生き物には到底かなわないのだと白旗を上げている。自然の名工の優れた職人芸に比べれば、私たちのやれることなど、ままごとのレベルにも届かないのだと主張しているのだ。しかし、この状況が未来永劫続くものなのかどうか、それは神のみぞ知ることである。
2006年に刊行された『ウェブ進化論』の内容が現実のものとなるまでには、若干の時間を要した。それにはソーシャルメディアの台頭や、スマートフォン・タブレットなどの普及を待たなければならなかったのだ。しかし、今度の進化はそこまで時間がかからないのかもしれない。なぜなら高速道路は既に引かれている状態なのだ。
新しい交差点がもたらす希望と不安。はたしてネットによる情報革命は、遺伝子工学のための予行演習に過ぎなかったのだろうか。この迫りくる未来をいたずらに煽るのも、過剰に拒否反応を示すのも誠実な態度とは言えないだろう。
ただし、論点はてんこもりだ。これまでにネットが担ってきた情報革命の功と罪、現在のバイオハッカーの動向を局所的なものと捉えるか否かという楽観と悲観、遺伝子を操作することが生み出すこれからの人間社会の善と悪。
本書で提示されているのは、そんな過去、現在、未来のさまざまな論点を繋ぎ合わせた、Web以上SF未満の世界だ。我々は、また一つ、正解のない問いに直面しているのかもしれない。
(※HONZ 3/1用エントリー))
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本文中で、合成生物学が神の領域なのかは分からないということを述べた。その理由の一つが「エピジェネティクス」という分野の存在である。ざっくり言うと、遺伝子によらない遺伝というものがあり、それが健康に影響するという事実が発見されているのだ。遺伝子の存在が、人生をシナリオに沿ってコントロールしていく舞台監督のようなものと捉えるのか、はたまたキャストの一人に過ぎないと捉えるのか、それによって判断が大きく分かれるところだ。そんな今、最も注目を集める「エピジェネティクス」の入門書。
『バイオパンク』は、生命科学をアウトサイダーの視点から描いたものであるが、インサイダーあってこそのアウトサイダーである。そんな生命科学の現況をインサイダー→アウトサイダーと順目で理解されたい方は、こちらの一冊から。著者は、かつて国際ヒトゲノム・プロジェクトの代表なども務められた人物。そもそものヒトゲノム・プロジェクトにおける概要から、ヒトゲノムとパーソナルゲノムの関連性、消費者直販の遺伝子検査を受ける際の注意事項まで、幅広くカバーしている。
最近レビューを書いたばかりのような気がするが、こちらの本もまだまだオススメ。生まれてまだ1万年ほどしか経っていない農耕文明に、人類は体の面でも心の面でも適応しようとしている途中段階にあるという衝撃のレポート。今、この分野の読み物は本当に面白い。レビューはこちら。
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