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自分を「作品」にしてはいけない

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「自分を『作品』にしてはいけない」。確かゲーテはそんなことを言っています。「ゲーテとの対話」(岩波文庫)にあったはずだけれども、昔読んだ本は離れた場所に置いてあるので確かめられません。

この警句は、特にインターネットでブログを書く若い人たちに、正しく受け止めてもらいたいと考えています。端的に言うと、自分自身を実況中継するとか、自分が着手している根気を要する仕事やプロジェクトなどの進捗を事細かに報告するとか、非常に個性的な自分の生活パターンを日々公にするとか、そういう風なパターンは好ましくないということです。自分自身にとって。(多少限定すると、日ベースのメディアで、自分自身の”発展的な変化”を素材にするということです)

ゲーテのこの言葉の背景を自分なりに解説してみます。手短に箇条書き。

・人は、毎日仕事をして、普通に生きるのが幸福の源泉である。(ツっこむポイントがいくつかありますが、放置プレイでお願いします。以下同)
・作品とは、作品の枠の中に納められるべきものである。作家はその作品においては、あたかも神のような存在であるが、それはその作品の枠の中においてのみ有効である。
・作品を作るという行為は、往々にして、一度限りでは終わらない。一作目を書いた作家は、その出来がよく、読者が評価してくれるなら、必ず二作目、三作目を書く。
・一度、自分自身を題材として作品を書いた作家は、もしその作品が何らかの成功を収めたなら、必ず次の作品においても、そのまた次の作品においても、自分自身を題材に書きたい欲求を持つ。
・繰り返すけれども、作品の枠の中においては、作家が神のごとき存在である。
・自分の”過去”を題材にした場合、その”過去”はすでに終わっているから、作家が生きている”現在”にフィードバックを及ぼすということはない。(例外などはこのさい除外)
・けれども、二作目三作目と次々に書いていると、必ず、”現在”の自分自身に関する何かを書かざるを得ないような局面が来る。(同上)
・”現在”の自分自身を作品に書くという行為は、あたかも、”現在”の自分自身について神のごとき立場で、何かの影響を振るうという行為でもある。そこには必ず、作為、脚色、演出といった恣意的な操作が絡む。
・そうした”現在”の自分自身について作為、脚色、演出といった恣意的な操作を施して作り上げた作品のなかの自分自身は、”現在”の自分自身とはある程度ずれている。
・仮にそのようにして何作か書いていると、いずれはそのずれが自分自身でも手に負えないものになってくる。
・それはあたかも、自分が自分自身の神のごとき存在として、ある種の創造行為を行ったことが、おそらくは何らかの越権行為のようなものに値し、そのしっぺ返しを食らうようなものである。
・その状況を続けていれば、ずれはますます大きくなる。けれども、仮に作品が何らかの成功を続けている場合は、自分自身を素材にさらに新たな作品を書かざるを得ない。
・どのようにして止めるのがいいのだろうか?

こんな具合になってしまうということを、ゲーテは一言で言っているわけです。
ユングは、自己言及の連鎖から自我肥大が生じるという風な言い方をしています。意識のバランスがうまくいかなくなります。

95年~97年ぐらいにウェブ日記がはやった当時、私もかなりおもしろがって毎日更新してましたが、自分といわず、人といわず、この自己言及、つまり自分自身ないし自分自身のやっていること(学業、仕事、何らかの関係づくり等々)をウェブ日記で書いているうちに、次第に↑で言っているずれが手に負えなくなり、日記を書くのをやめるか何かするというパターンを多く見ました。そのなかには自分自身も入っていたりします。

その頃、常々頭に浮かんでいたのは、ゲーテの↑の言葉でした。「ひょっとしたら、今自分は、ウェブ日記で、自分自身のことを『作品』に仕立てているのではないか?」という思いが何度もよぎりました。
しかしそれはそこ、まだ少し若かったものですから、あまり気に留めずにやっていました。けれども着地点はあまり気持ちのいいところではなかったです。

メディアが恐ろしいのは、オーディエンスがいるということです。オーディエンスは何かをすれば喜ぶし、拍手喝采をくれます。けれども、そうしたオーディエンスからのフィードバックを、生身の自分が受けるようになると、上で言ったような自我肥大の傾向が生じかねません。(日々淡々と書いているブログが読んでて気持ちがいいのは、自我肥大が起こっていないからだと解釈することもできます)仮に、プロの作家であれば、そうしたことも含めて、さまざまな処理の手法を持っていますから、よいといえばよい(でもよくないと言えばよくない)のですが。非プロの場合は悲惨なことになりかねません。

持続的に創作する作家は、必ず、作品とそれを作り上げる主体の自分との間に、ある程度の距離を置き、作品に対するフィードバックが世間から来ても、それが直接は自分の身に及ばないようにしています。

そんなことから、ブログを書いている若い方々に言っておきたいのは、自分自身をあたかも作品のようにしてブログに書き連ねていく行為は、あんましよくないということなのです。

Comment(4)

コメント

ari

「2ちゃんねる史観」では、今泉さんと正反対の意見を述べさせていただきましたが、今回のエントリーに関しては、全く同感です。皆がこぞって表現者になろうとしている今の風潮には、何ともいえない、あやうさを感じます。芥川龍之介、川端康成、太宰治、三島由紀夫、こういった偉大な表現者の行く末についても考えてみることも必要なのでは。
http://q.hatena.ne.jp/1157804585
あたりも参考になるかと思います。

ariさん、コメントをどうもありがとうございます。梅田望夫氏が言う「総表現社会」ですが、それはそれでよく、そこに色んな可能性があると思います。ただある種のリテラシー、つまり、メディアを使って自分を外部に出せるということと、リアルな生活との双方のハンドリングがうまくできるためのリテラシーは必要で、現在はそれをみんなが学んでいる過程なのではなないかと思っています。
リンク先のページが非常に興味深いですね。あとで見させていただきます。

いまさらながら、この今泉さんの記事について考えなくてはならない時期だと思っています。
 時々、ブロガーとしての自分を見つめなおすために見に来ています。

吉田さん、こんばんは。コメントありがとうございます@システムテスト中
吉田さんのお書きになるものはインパクトありますから…。反響も大きいとお察しします。
一種の芸能人的なマインドを持たないと、対処が難しいというフェーズもあるかと思います。”芸能人として生きる”といった割り切り。”有名税は支払うよ”という割り切りです。
職業的に名前を出して書いている人は、売れている人もそうでない人も、デビューしたとたんにそのモードに入っているので、相応に”税”は支払っていると思います…。
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そのへん、非常に難しい問題をはらんでいますね。ブロガーというポジションをどう捉えるか。
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読者の期待を低めに低めにもって行くという手もありますね。わざとはずした投稿を何本か出して、読者の期待を煙に巻くとか…。

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