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株式会社インフラコモンズ代表取締役の今泉大輔が、現在進行形で取り組んでいるコンシューマ向けITサービス、バイオマス燃料取引の他、これまで関わってきたデータ経営、海外起業、イノベーション、再エネなどの話題について書いて行きます。

インプットとアウトプット

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知的生産などと言うとおこがましいですが、まー何で食っているかといえば、それに近いことで食っているので、おこがましさを押して以下を記すわけです。

昔、ガキの時分に、立花隆の「知のソフトウェア」を読みました。この本には、知的生産の技法が説明してあります。彼がひとつのテーマに取り組む際には、まず神田神保町の古本屋街に行って、両手で抱えきれないほどの資料を買い込み、それに一冊ずつ当たるところから始めるとか、取材を含めて膨大な仕込をした後で、まとまったものを書く前段階では、関係する諸要素を一枚の図にまとめ、その図を何度も何度も書き直して、自分が納得する構造が描けたら(今で言うマインドマップに近い)、そこから書き始めるとか、そんなことが書いてあったように記憶してます。

私がその後、雑誌だのライティングだのに関わるようになって、まず、拠って立ったのが、同書に書かれていた基本原理「インプットは多ければ多いほどよく、アウトプットの方は少なければ少ないほど質が高まる」というものでした。

まずはひたすら実践。何を始めるにしてもまずインプット、せっせとせっせとインプット。記事でも書籍でも取材でも仰いだ指導でも。けれども通例、企業活動の枠のなかで行う記事執筆では、無限のインプットなど許されないことで、時間の制約もあれば予算の制約もあるなかで、非常に限られたインプットで、非常に多くのアウトプットを出さなければならないということが往々にして起こります。例えば、取材一本で4ページの記事を書くとかですね。これは、インプットができるだけ少なく、アウトプットがやたらと多い悪い例です。

後年、某大手経済新聞系の仕事をしてみて痛感したのは、同社および同社系列の記者という肩書きの方々は、この「インプット」について、できるだけ多くやれ、手間をかければかけるほどよい、コストは会社が全部面倒を見てやる、という目に見えない強大なバックアップがあるなかで取材をしているんだなぁーということでした。彼らにとってのインプットは無論取材です。これを支えるのが言うまでもなく、大手クライアントによる安定的な広告出稿という事業モデル。ジャーナリズムを広告モデルが支えるというのは、よく考えてみれば、少しおかしな現象ではあります。

一方、こちとらフリーランスないしは小規模有限会社の代表でやっている状況では、1本の4ページものの記事を書くのに6箇所も8箇所も取材しているようでは、ペイパーパフォーマンスがものすごく低下してしまいます。このへんは給与が保障されている彼らにはまったく理解できません。

「インプットは多ければ多いほどよく、アウトプットの方は少なければ少ないほど質が高まる」の実践には、往々にしてこういう経済的な現実が立ちはだかります。

さて。このインターネット時代になってみると、「インプットはできるだけ多く」という部分で非常に融通が利くようになりました。英語圏の資料の海に漕ぎ出したとしても、さほどコスト負担は重くありません。時間の許す限りインプットに精進できます。自分が比較的得意な分野で、他とそこそこは差別化した形で、アウトプットの質をそれなりに高めていくプロセスが現実的にできてしまいます。(もちろん、それだけでは芸がないですから、付加価値を付けるための種々の作業をします)

それで済んでしまえば何の問題もないわけですが、最近ではこのブログがインプット-アウトプット問題に影を投げかけます。
誰に限らず、ブログを始めてしまうと、インプットがあるそばから書きたくなってしまうという衝動にかられます。で、それを現実にやります。私も実際、それに近い状況です。
Aというインプット→即座にブログ書き、Bというインプット→即座にブログ書き、Cというインプット→即座にブログ書き。。。。
これだと、立花隆が言う「アウトプットの方は少なければ少ないほど質が高まる」にはまったくなりません。

情報摂取と情報排出とがほとんど間髪おかず起こる。これっていいのか?これっていいのか?と思いつつ、Web 2.0的なCollective Intelligenceのメカニズムもあることだし、スマート・モブス的なダイナミズムも働くことだし、衆愚でなく衆知の立場で周知徹底なんちて。

俯瞰すると、膨大なインプットに基づく、あまり咀嚼されない膨大なアウトプットが、インターネット全体で分散的にものすごいスピードで起こっている状況があります。仮に、知的生産というものが、誰ということなく、特定の個人によって起こるものだと想定すると、この状況は衆愚以外の何でもないでしょう。けれども、知的生産というものが、不特定多数の人間にまたがって生じることもあると想定すると、この状況は知的生産の培地のようなものではあるかも知れない。立花隆氏はどうお考えなんでしょう?最近の著作を読め (゜-°)\バキッ。

ひとつ言えるのは、きょうび、知的生産に類する営みは、コメントやTBがつく環境で行われないと、生きたものになりえない、そういう雰囲気があるということです。不特定多数によるCollective Intelligenceは荒唐無稽かも知れないけれども、2人、3人、5人、30人、150人程度までなら、何らかのCollective Intelligence的なダイナミズムが好影響を与える可能性はある。それは何かの学会なんかでもそうですよね?

とは言いつつ、真にユニークな知的価値は、孤高の集中からしかもたらされないのではないかという思いもあることは確かで。最近、引用が多い「The World Is Flat」なんかも取材や何かで秘書やTV局などの協力は得ているけれども、最終的には彼ひとりが書いているわけだろうし。5人ぐらいがよってたかって書いた本には迫力がありませんね。なんちて。ということで、本件にも答えなし。

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