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株式会社インフラコモンズ代表取締役の今泉大輔が、現在進行形で取り組んでいるコンシューマ向けITサービス、バイオマス燃料取引の他、これまで関わってきたデータ経営、海外起業、イノベーション、再エネなどの話題について書いて行きます。

近代文学のわかりにくさ

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Mixiで日記をたらたら書いていたら、おもしろいのができたので、こちらにもアップします。ITとは関係ありません。。。

ヒトさまの翻訳文をいじる作業を長く続けていると、いろんなことを思います。
リライト役は、誰かが一次的に訳したテキストを第三者的な立場から眺められるので、自ずと粗が見えます。
翻訳者は、原文にべったりで訳すので、当然ながら原文の”かたち”をそのまま反映させており、結果的に日本語として読むにはひどく生硬な文章になりがちです。

こういう生硬な文章、どこかで読んだことがあるなーと思い起こすと、明治~昭和前半に訳された外国文学の小説に行き当たります。
全部が全部とは言わないまでも、一部のひどく難解な印象を与えるテキストから成る小説は、ひょっとすると翻訳者が生硬なフェーズから離陸できなくて、それがそのまま世に出てしまったということがありはしまいか?

その延長で、小説という文学ジャンルの移入期に制作された日本文学の作品の大半が持つ、ある種気張った文体は、この翻訳から来る生硬な文体に強く影響を受けており、文学本来のものではないのではない可能性があるのではないか?(例えば、初期の日本のHipHopのDJに感じられたぎこちなさのようなもので、当時のオーディエンスにとっては真新しく感じられたとしても、少し年数が経ってみると、あまり表現としての強さということを感じさせない、そんな風なもの?)

そういう意味で、日本語の小説の書き手として修練していた時期の村上春樹が(羊三部作を書いていた頃)、米国小説翻訳家としての自分も鍛えるという意味もあったでしょうが、まず、米国英語で自作を書き、それを翻訳家的に日本語のこなれた文章、自分がハラの底から納得できる文章に落とし込んでいったという作業は、非常に文学史的な意味を持つ営為(←なつかしい言葉ですなー。いま誰も使わないでしょうね)なのではないでしょうか?つまり、翻訳文体の呪縛を解き放つために、あえて批評的に、その全工程を自分がコントロールできる形で行ったということですね。言い換えれば、自らメタレベルで外国文学を書き、それを翻訳する文体を自分が納得できる形で習得するという作業を、過去の翻訳文学に対する批評行為として行ったということです。

生硬な文体に味があった日本の初期の小説表現は、村上春樹をまって初めて別なステージに入ったということはできないでしょうか?

個人的には、村上春樹はいずれノーベル文学賞を取るように思います。

2002年頃、上海に足しげく通っていた時期に、かの地にも無数のファンがいて、同時代の自分たちの文学として読んでいたことを思い出します。ある種の普遍性があるのでしょうね。

内田樹の研究室 - 村上春樹恐怖症
http://blog.tatsuru.com/archives/001595.php

↑もご参照ください。

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