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「事実」は当事者の数だけある ‐ 烏賀陽弘道氏を反面教師に

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芥川龍之介の有名な小説「藪の中」が説くように、「事実」当事者の数だけあると思います。事象は一つであっても当事者はそれぞれの主観で起きたことを解釈して記憶し、理由づけます。その結果、暴言があったのか?言語道断の失礼な振る舞いがあったのか?そして暴力があったのかさえも相対的な当事者それぞれに違う「事実」として残ると思います。

以下は、Togetter  烏賀陽弘道氏「福島県南相馬市の津波被災地(海岸部)に行くたびに、身の危険を感じます。そこで囲まれ、殴られ、つばをかけられる。レンタカーがボコボコにされる。」  http://togetter.com/li/524179#c1131558

からの主要なTweetの抜粋です。

#2013/6/26 追記 「ウガヤも南相馬の治安が悪いなんて書いてないよ。」とコメントいただいたのでで、「ニューヨークのサウスブロンクスでもここまで危険ではない。」という烏賀陽氏のツイートを追加しました。

烏賀陽氏のTweetより

公道で写真を撮っていただけで住民に言いがかりをつけられ、囲まれ、殴られ、

有田氏のTweetより

写真を撮られて、「このメッセージは偽善だ」と暴言を受けた。

elan氏のTweetより

誰もアイツを殴っちゃいない。殴ろうとしたのはオレだ。mtkzに羽交い締めにして止められたけどなw

結局諍いが起きたらそれぞれに言い分があるでしょう。フリージャーナリストの烏賀陽氏は取材で公道から写真を撮っただけと言う一方で、写真を撮られた側は、一周忌の日に意に反した写真を撮られて暴言を受けたとなることは、起きうる事象と思います。

ただ、問題はいさかいの当事者たる烏賀陽氏が、自身の怒りを、福島県南相馬市の津波被災地(海岸部)は治安が悪いとか、いきなり見の危険を感じるような場所だと、取材に基づく事実かのように語ったことでしょう。
本人の体験だから自信満々で問題ないと思っているのでしょうが、逆に当事者だから見えなくなっている事実があると思うわけです。

その、烏賀陽氏が写真を撮っただけで、暴行を受けたと主張し、烏賀陽氏が「「偽善だ」と暴言を吐いたと指摘されている、イルミネーションは非常に大きな意味があるものでした。特に震災から一周忌という鎮魂の日にとって

http://www.asahi.com/special/10005/TKY201112120595.html

asahi.com(朝日新聞社):「置き去りにしないよ」電飾で慰霊のメッセージ 南相馬 - 東日本大震災 via kwout

何が事実かはわかりませんが、一つ教訓として得られることは、「事実」は当事者の数だけあること、そして、ジャーナリストが当事者になってしまった場合は、自分が感じた事実を語るのを慎重にすべきということです。 烏賀陽氏はこんな負け惜しみを語っています。しかし、ジャーナリストならたとえそう思っていたとしてもそれをジャーナリストの手法で語り広めるのは反則技で、かっこ悪くて、恥ずかしいことだと思います。

そして、今からでも遅くないので、取材というのは当事者に痛みを与えうるし、時には「取材の暴力」となりうることを知って欲しいことです。たとえ自分が正しいと信じていても間違っている可能性を考えて、取材対象に対して尊重し謙虚であるべきだと思います。

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